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夏目漱石 「文学評論」(岩波文庫)下巻 2

 p153
 哲学問題を詩にしようとしたアレキサンダー・ポープの遣り口は、生で食うべき蜜柑をゆで、味噌をつけて食わせるようなもので、まずいと言えば「他のものが遣ればなおまずかろう、オレだからまだこのくらいに料理が出来たんだ」と威張っているようなものである。
 p158
 ポープは、詩は章句を作るうえの技巧であって、実質の関係するところではない、いかなる材料でも旨く言いあらわしさえしたらそれが立派な詩になると言ったという。パスカル「パンセ」の陰気さを嫌ったヴァレリーは「あれは詩だから(実質を云々してもはじまらない)」と書いた。
 p187
 能に出てくる爺や婆は身分の低いわりにすこぶる上品な言葉を使う。俗人にはまるで解りやしない。見る人も実際の翁とかを想像するものは決してない。なかには想像するなんぞと愚かなことを主張する能通もいるが、空嘘である。実際は形式にはまった、約束的な能の舞台でのみ予期する翁を見て楽しむだけである。私はそれで結構だと思っている。
 p238
 デフォーは決して詩に触れない散文家の男である。散文とは車へも乗らず、馬へも乗らず、ただ地道にお拾いでお出でになる文章を言う。これは決して悪口ではない。歩行は人間常体の運動である。軽業よりもよほど人間らしくって心地がいい。けれども年が年中、火事見舞いに行くのでも葬式の供に行くのでも、足を擂粉木にして同じ了見で遣っているのは、本人の勝手とはいいながらあまり器量のない話である。
 対するシェイクスピアの見事な詩。悩める帝王の終わりない不安を美しい韻律の一行で言い尽くす。
UNEASY LIES THE HEAD THAT WEARS A CROWN.

 p242
 作者が作中人物に強いては、小説の生気は生まれない。読んで窮屈が出る。作中人物のほうが自由意志にしたがって、自分でまとまった筋を構成するように働いていかなければならない。作家が大事件の経緯を写すに偶然を嫌うは、このきらいを避くるがためである。部分と部分の関係は人物の心理上の因果によって縦に推移し、横に展開しなければならぬ。(作家である漱石にしかかけない作法論である。ただし漱石の作中においてこの作法がつねに守られているとは言いがたい。『坑夫』の最後半で、主人公は飯場頭の安さんに“偶然”出合って救われてしまう。) 
 縦に推移し、横に展開した発展の末に落着の一段を添えるのは自然の帰着である。これは自然の原則であるとともに人間の要求である。人間の自然を観察するときは、この点に達してやむのが常態である。この点に至らざるものはまだ自然を語る資格のないものである。この小説観のゆえに、『門』でも『虞美人草』でも、安易な終わり方をしなければならなかった。ただし、「もし末段に解決の灯火を点ぜぬときは、すべての推移、展開の裏面全体にこれと等しきあるものを備えて統一の感を保護せねばならぬ」ともいっている。こちらのほうが現代小説の作法だろう。そのぶん作家はむずかしくなった。
 p263
 ロビンソン・クルーソーが相手にする自然は、彼になんら働きかけない、ちっとも活劇を起こさない自然である。動かない石地蔵と相撲を取っていて、「だんだん番数も取り進みましたるところ」といっているようなものである。
 p280
 ロビンソン・クルーソーは山羊を食うことや、椅子を作ることばかり考えている。全くの実用機械である。デフォーの小説にはどうみてもクルーソーのような男ばかり出てくる。そうしてこれがイギリス国民一般の性質である。頑強であり、神経愚鈍であり、実際的である。