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岩井克人 「二十一世紀の資本主義論」(ちくま学芸文庫) 3

 p63−6
 基軸通貨とは、すべての国のすべての商品と交換できるまさに「グローバル市場経済の貨幣」である。ドルが基軸通貨であり続けるのも、「ドルは誰もがそれを未来永劫にわたって受け入れてくれる」という脆弱な「予想の無限の連鎖」があるからにほかならない。ハイパー・インフレによるドルの価値暴落がおきるとこの「予想の無限の連鎖」が突き崩れ、「ドルは誰もがそれを受け入れてくれないのではないか」という負の連鎖が始まる。基軸通貨ドルの媒介によって可能となっていた貿易も金融取引も大部分が不可能となる。
 p68−73
 基軸通貨であるドルを発行するアメリカ政府は、何の労力もかけずに、ドル紙幣を印刷するだけで外国の商品・サービスを買うことができる。基軸通貨だからそのドルは外国間で回遊し続け、アメリカに戻ってくることはない。したがって国内に貨幣がだぶつくことはなくインフレーションも起こらない。この大いなる利益をシニョレッジ(Seigniorage)といい、貨幣発行者=古くは君主の最大の特権である。
 ドルを大量に印刷し外国に出回るドルが増えれば、ドル価格は下がり国内産業を保護できるとともに、対外債務を実質的に少なくできる。つまりシニョレッジはますます大きくなる。ドル切り下げの誘惑は大きい。
 p74
 基軸通貨の問題について政治的な覇権や勢力均衡の理論を応用するほど愚かなことはない。ドルが基軸通貨であるのは、それが世界中で受け入れられているから世界中で多くの人に受け入れられるという、貨幣がなぜ貨幣であるかという循環論法の結果に過ぎない。アメリカの経済支配力と一対一では必ずしも対応していないのである。世界にいくつかの基軸通貨を共存させることは、ドル危機とユーロ危機と円危機をあえて同時に引き起こすようなものである。
 p76−8
 貨幣の過剰供給によるシニョレッジの誘惑を断ち切るのは自由放任主義の下では不可能である。一国政府が自国の利益を無視することは期待できない。真の解決がもしあるとすればグローバル中央銀行の設立以外にはありえない。
 しかしいまだに政治的理念が先行し、民族が憎悪しあう「国民国家」最優先の時代に、国家間の利害を超越する独立性を保障できる文化・政治・経済的基盤はなにも存在しない。ドルのハイパーインフレーションのような、地球全体が一つの運命共同体になってしまうような経済危機が起きるまでは、グローバル中央銀行の設立はたんなる学者の夢物語である。
 「美しきヘレネーの話」
 p187
 ポストモダンという時代精神は、まずなによりも近代を支えてきた「大きな物語」にたいする「不信感」である。近代と呼ばれた時代においては、真理を求めるにせよ正義を求めるにせよ、「知」は自らの正当化のために、何らかの「大きな物語」――<精神>の弁証法、意味の解釈学、理性的人間あるいは労働者としての主体の解放、富の発展――に依拠していた。だが先進資本主義国が大衆消費社会、高度情報化社会あるいはポスト産業社会といった呼び名でよばれる社会の高度な発展段階に入るとともに、こうした「大きな物語」にたいする信頼が揺らいでしまった。
 情報そのものの商品化といった「社会の情報化」によって、知の習得が精神の形成、あるいは人格の形成と不可分であるという古い原理は、すでに、そして今後はいっそう衰退し、顧みられなくなる。その結果として、知識の供給者と使用者とのこの関係が、商品の生産者と消費者とのあいだの関係、の様相を呈する傾向はいっそう強まるだろう。いいかえれば知は自らを目的とすことをやめ、商品のように、交換されるためのものとなる。
 p188
 しかし問題は、このポストモダンという認識がまさに「ポスト」近代という名を冠せられているという事態である。そこには古典古代から近代へ、近代からポスト近代へというように、歴史の中に時代精神の発展形態をみてとろうとするもう一つの「大きな物語」が隠されているのではないか。