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内田 樹 「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(角川文庫)2/2

 フェミニズム=奪還論」の意味
 P59−60
 ボーヴォワールが『第二の性』で主張しているのは、平たくいってしまうと、「男の持っているものを女性も持ちたい」ということです。権力と社会的地位と高い賃金。
 ぼく・内田はこれをフェミニズム的「奪還論」と呼んでいますが、フェミニズムは奪還論を唱えた途端に、彼女らが異議を申し立てている「男性中心主義」社会の価値観を、半分肯定してしまっているのに気づいていないんですね。男が占有しているものには「価値がある」ということに女も同意した、ということなんですから。
 「男性中心主義社会」の価値観を半分肯定しておいて、その社会をまるごと改良しようというのは難しいですよ。「奪還論」的な考え方を採用している限り、「女性の男性化」は必然の帰結です。
 
 明石の歩道橋事故について思うこと
 P119
 死者に鞭打つつもりはありませんが、この事件に、ぼくは現代人の「空間をマップする能力」の衰えを感じました。
 本来、人間を含め動物の身体感覚というのは、一定以上の混雑に対しては危険を感じるようにできています。ある程度以上の人がいて、それがこのペースで行ったら数分後どうなるかということを想像すれば、「行かない方がいいみたいだ・・・・」くらいの判断をする直感能力は誰にでも備わっています。
 問題は、その身体センサーが機能しなかった、あるいは機能したのに無視した、ということです。警備態勢が穴だらけだったのは事実ですし、救護態勢ができていなかったことも事実です。しかし、身体が発したはずの危険信号を無視してしまい、(誰かが支えてくれるさとして)迂回行動をとらなかった楽観主義の被害者が、「当局は守ってくれなかった!」と、ダダばかりこねるのはどうなのでしょうか。
 
 日本人のアイデンティティ
 P194
 集団主義だとか、甘え社会だとか、タテ社会だとか、恥の文化だとか、花鳥風月を愛でるだとか・・・・、日本人のアイデンティティを示そうとする様々な表現があります。でも、「日本は・・・・な国であり、日本人は・・・・な国民である」というのは、まあ国際社会における「名刺代わり」のようなものだと思っておいたほうがいい。名刺というのは、渡す本人の「本性」を何ら示すものではありませんよね。第一、その人の本性というものは一体存在するものなのかどうか。「本当の自分らしさ」の核となるような事実をつかまえようとしたって、そんなのまるで無駄なことです。
 そうではなくて、問いは、「こういうものが日本人である、ということにしません?」というふうに立てられるべきなのではないでしょうか。日本の過去についての物語を、その時々の「聞き手」の都合に合わせて、過去の歴史的事実の中からセレクトしてきて、糸を通してラインにするわけです。そしてこのラインの延長線上に二一世紀の日本を展望していく、というのがナショナル・アイデンティティの形成ということだとぼくは思います。
 日本人の歴史的経験の中から、封建時代も明治維新大正デモクラシー軍国主義戦後民主主義極左学生運動フェミニズムも、メインストリームもサブカルチャーも、全部の政治的・社会的・文化的な思潮を説明できて、日本社会の「個性」を記述できれば、それは日本についての「うまく妥当する」社会理論であると思います。
 でも、今の社会理論の中に、そこまでのスケールのものはありませんね。作り話でもいいんですが、そういうスケールを持たなければ、という確信犯的な個人さえぼくは知りません。
 
 資本主義と大衆
 P250-3
 隣人とのごくわずかな差別化には熱心だけれど、隣人と私をともに包み込んでいるニッチの狭さにはぜんぜん気がつかない、というような意識のあり方をする人たちのことを「大衆」と呼びます。
 「隣人とのごくわずかな差別化」は、生産者の側からすれば簡単なことなんです。たとえば「生地も色もスタイルも同じで、ただボタン位置が違うだけ」のコートを作れば、多くの客が喜んで買ってくれるということです。それ以上多様な商品を用意する必要はもうないんですから、生産ラインは一本で済みます。ひどい話ですが、コストを下げるというのはそういうことです。資本主義にとってベストの戦略が簡単に採れるわけです。なにしろ私たちは、色違いのユニクロのフリースを二千万着も買ってしまう国民なんですから。
 ここ何十年も、それまでの男とか女とか、年長とか子供とか、学生とか社会人とか・・・いろいろな「らしさ」の制度性が批判され、「生き方のオプションの多様化」がめざされてきました。個人のまったき自由を尊重したのです。しかし皮肉なことに、その努力の結果、ぼくたちは「生き方のオプションの多様化」ではなく、まるっきりその逆の「生き方の単線化」というべき事態に立ち至ってしまいました。