アクセス数:アクセスカウンター

内田 樹 「街場の中国論」(ミシマ社)

 グーグルのない世界 
 p52-6
 二年前、グーグルが中国から撤退した。中国は「グーグルが存在しない世界」に取り残されることを自ら決断したのだが、私は、この決断は中国の知的イノベーションにダメージを与え、中長期的に中国経済の「クラッシュ」を前倒しする可能性を高くしたと思っている。
 ご存じのように、かの国においては他国民の著作物の「海賊版」が市場に流通している。一般的には、「市場には流通しないもの」が「海賊版」の定義である。従ってかの国においては、著作権に対する遵法意識がきわめて低い、ということに誰も異論はないだろう。
 国際的な協定を守らないことによって、中国は短期的には利益を得ているのだが、長期的には大きな損失がもたらされるはずである。それは「オリジナル作者に対する敬意は不要」との考え方が、中国国民に根づいてしまったからである。
 「海賊版」社会では、誰が創造したものであろうと、それを享受する側はオリジナル作者に感謝する必要も対価を払う必要もない。そういう考え方をする社会では、「オリジナルなアイデア」を持つこと自体の動機づけが損なわれる。当然である。そしてそんな社会では、「オリジナルなアイデア」を生み出し、育てようとする意欲そのものが枯死する。グーグルの撤退も同じ文脈で理解すべきだろう。
 世界は、情報というものを、IBMのように「中枢的に占有する」のでもなく、アップルのように「非中枢的に私有する」のでもなく、グーグルのように「非中枢的に共有する」べきであるという考え方に、間違いなく移行しつつある。
 グーグルの中国撤退はこの、「情報を非中枢的に共有する」ことを中国共産党が認めないことを示している。つまり「クラウド・コンピューティング」というアイデアそのものが中央集権的な情報管理政策と両立しえない、という重い事実を表している。
 高度資本主義社会において、経済政策の根幹にある情報管理政策が世界標準から立ち遅れるということの帰結は、社会そのもののクラッシュ以外にありえない。被支配者にとって「世界標準だったキリスト教を拒否したローマ」というものが、支配者にとってもありえなかったように。
 なぜ抗日デモだけが激しい?
 p236
 首相が靖国を参拝したり、アジアでの過去を正当化することを歴史教科書に書く人がいると、それがただちに軍国主義の復活だと中国人が過剰な反応をするのは、日本人には不思議な気がする、正直。軍国主義の復活なんか日本人の誰も望んでいないし、第一アメリカが黙っているはずがない。日本政府内に、アメリカに反対する外交政策を展開する度胸のある政治家はいないから、軍国主義復活というのは百パーセント不可能である。
 にもかかわらず、中国人は決して起こるはずのないことに対して激しい反応を示す。だとすればそこには、当面の政治目的とは次元の違う心理機制がはたらいていると見なすのが普通だろう。
 その心理機制とは「抗日民族戦線による大勝利を全中国人民に思い出させる」という、共同幻想記憶のことである。私たちは、清朝の滅亡以来、全中国人民が大同団結した時期は存在しないことを忘れがちだ。辛亥革命を滞らせた北洋軍閥日中戦争のときの満州国朝鮮戦争時の蒋介石・・・・・などがかならず存在したことで、その歴史期間を通じて、全中国人が一丸となった時期はついに一度もなかった。
 そのなかで唯一例外とされるのが抗日戦なのだ。抗日戦のときだけ、国共二党以外はいずれも「日本の傀儡政権」と見なすことができた。国民党、共産党軍閥まで、小異を捨てて「抗日」の旗の下に結集することができた。過去一世紀の歴史のあいだで、「抗日戦」だけが中国人の「国民的統合」の記憶なのだ。
 だから、国民的統合に危機的徴候が見えたとき、共産党集権体制の矛盾がつよくあらわれたり、党指導部のハードパワーが落ちたときに、要路にある中国人たちがとりあえず「抗日統一戦線」の記憶をかき立てようとするのは、ごく自然なことなのだ。
 この中国人の「気持ち」が、私たちにはうまく理解できない。それは、私たち日本人には、日本人としてのアイデンティティの危機を経験したときに、「そこに立ち戻れば自信が取り戻せる」ような国民的統合の記憶の核が、全く一つとしてないからである。
 中国と日本の「革命観」
 p128−31
 中国の王朝はそれぞれの家系の姓を持っているから、王朝交代は「姓が易る」ことを意味する。ある王朝は天命によって統治しているとされているので、天命が尽きればそのことを悟って自ら王朝を廃せねばならない。さもなければ、次に王になるべきものが天命に従ってその王を伐つ。こうして「天命を革(あらた)める」ことが「革命」の意味である。・・・・・・・。
 ところが天皇家にはなにしろ姓がない。姓がないのだから、姓の易えようがない。能の『花筐(はながたみ)』にもあるように、大和朝廷に後継者がなく、朝鮮由来の「ほとんど赤の他人」だった継体天皇が即位させられたとき、実質的な王朝交代は行われているのだが、天命は神武以来一度も革まっていないという「話」になっている。
 清盛も、頼朝も、尊氏も、信長も、秀吉も、家康も、日本の実質的支配者はそのつど天皇の政治的位置を自分たちの都合に合わせて決めてきた。実際には天皇をコントロールしていた場合でも、「天命は神武以来一度も革まっていない」というゲームの暗黙のルールは、なぜか全員が守ってきた。
 でも、一九四五年の敗戦は違った。東久邇宮首相からマッカーサー元帥に政治の実権が受け渡され、天皇は無傷であったなんていう「話」は誰も信じていない。
 あきらかに三島由紀夫が言った意味での「断弦の時」がそこにあった。だから、ある種の、「暗黙のルールを守ってきた人たち」にとっては、現在の政体の正当性を理解できない。中国人が「天命の尽きた王朝を廃し」、次の王朝を認めるようには考えられない。
 「ある種の狂信者たち」だけが「断弦の時なかりせば」と考え、 「自信が取り戻す国民的統合の記憶の核」 を幻視しようとしている。大地震原発事故が、もともと政治のハードパワーを持たないひ弱な指導層に、B級大衆の「平等」「安全」希求という黒いエネルギーを供給し続けている。何であれ「変化」「混乱」があれば新聞は読まれるから、メディアが鳴らす木鐸の音量は上りっぱなしである。