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加藤典洋 『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社)1/2

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』、東浩紀動物化するポストモダン』以来、ひさしぶりに中身の濃い思想書を読んだ。毎日新聞は「3.11を踏まえた日本社会論の大力作が出たものだ」という書評を載せた。「人類が永遠に続くのではないとしたら」というタイトルも妙にグッときた。
 序論に「保険会社が福島原発を見放した」というくだりがあった。事故を起こした原発の今後の収拾作業のリスクに対して、世界中の保険会社が保険を引き受けられないという決定を行った、という意味だった。この序論を読んだとたん、いくら鈍いわたしでも原発に対する考え方が180度変わった。
 3.11後、わたしは正直言って、反原発の「市民運動」に懐疑的だった。「生命より経済が大切ですか?」というスローガンの情緒的湿っぽさが神経に触ったし、「火力発電による電気代の高騰にあなたたちはずっと耐えられるの?」とくらいに思って、自宅近く交差点で毎日だらだらとしゃべり続ける反原発運動家たちを胡散臭く見ていた。しかし、この本の序論の「保険が事故原発を見放した」という一文は衝撃的だった。

 p24
 原発の事故を対象に、原子力保険というものが用意されている。日本でこの保険ができたのは1960年のことである。原発を持つどの国でも民間保険市場の引き受けを結集するために原子力保険プールが組織され、さらに、海外のプールとの間で再保険を交換し、国際的にリスクの分散をはかるということが行われている。日本では現在損保23社が参加し、この原子力保険プールを結成しているが、その団体が、今回、東電の福島第一の事故を起こした原発との契約について、更新を見合わせる決定をしたというのである。
 ・・・・・・・原子力事業者は、事業所ごと、自己が起こった場合の損害賠償に備える民間保険に入ることが法律によって義務付けられている。入っていないと事故収拾作業を含め、原子炉稼働が認められない。・・・・・そういう法制度のもとにありながら、世界中の保険会社が保険引き受けを拒否したのだ。福島の事故原発は世界中の保険会社に見放され、事故の賠償は無保険状態で政府費用つまり国民の税負担で全額賄うことになったのである。福島の事故というのはそういう未曽有の事態である。加藤典洋が言うように、わたしもこの文章を読みながら自分の中で検針器の針が「反原発」のほうに大きく振れるのを感じた。
 p26−7
 (原子力)保険とは、ほぼ絶対安全と社会的に認められて稼働している原発が、万々が一、事故を起こした場合に機能する、特別の場合に備えたセイフティネットのはずである。・・・・事故を起こさない間は契約を行うが、いったん事故が起こったら、リスクが大きくなったので引き受けられなくなるというのでは、保険の意味をなさない。自動車保険で、事故が起こらない間は保険を受け付けるが、いったん大事故を起こしてみたらだれも保険を引き受けなかった、というような事態を考えてみればよい。そんなことがとうていありえないものであることがわかるだろう。
 ・・・・・福島の事故の打撃は確かに甚大である。しかし保険契約とは本来そのようなものなのだから、ここは普通であれば、契約更新に際し、保険会社が以降の保険料の値上げを通告してくる場面なのである。それが産業社会における保険の最重要な役割というものである。それが、世界の保険会社が、契約更新を、保険というもののシステムの常識に反して拒否した。いうならば万々が一の特別の場合に備えたセイフティネットであることを、世界の保険機構がこぞって辞退したのだ。
 p33−4
 社会には、弁償がつかない世界、「責任」をとりきれない世界――無‐責任の世界――がある。例えば2001年の9.11同時多発テロに関して、国際法廷でイスラム利益側と西欧利益側が対等の立場で議論を行い、ビン・ラディン側に「法的責任」を取ってもらうというのは、アメリカ国民としてはありえない選択肢であっただろう。だからアメリカ特殊部隊は、ビン・ラディンの居場所を突き止め、パキスタンの領空をあえて審判し、襲撃要因を厳選して、ビン・ラディンに対し、自分たちが受けたテロ行為に無限に近い形をもって「応答」した。法にのっとって責任を取ってもらうという形ではなく。
 これと同じように、福島の原発事故に対する保険会社の対応は、弁償がつかない世界、「責任」をとりきれない世界――無‐責任の世界――が、私たちのすぐ身近にあることを教えてくれるものではなかったろうか。福島の原発事故は、わたしたちのすべてがそこに依存している近代産業世界にとっては、まさにビン・ラディンのテロのような、あるいはアメリカ特殊部隊の襲撃のような、法外のできごとであったことが、ここに露頭している。