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加藤 貴(校注) 『徳川制度』(上)

 明治の有名な民権派新聞に『朝野新聞』がある。二人の大物、成島柳北末広鉄腸がそれぞれ社長・主筆を務めた。本書はこの『朝野新聞』に明治25年から26年まで断続的に掲載された「徳川制度」というコラムなどを岩波文庫3巻にまとめたもの。上巻だけでも司法と市政、江戸町奉行所、囚獄の事、人足寄場の由来、穢多の一大族制、非人の族制、乞食の群、仁太夫の企業、江戸の火事、経済と市場・・・・・などじつに興味をそそられるタイトルが並んでいる。
 3巻合わせると2000ページを超える大部のものだし、内容自体なにかの糧になるというものでもないから、興味のある章だけを拾い読みするだけで十分だろう。以下には「穢多の一大族制」の一部だけを抜き書きするが、そうだったのか!と教えられるところが多かった。ただし、『朝野新聞』に載ったもともとの記事の信憑性については、もちろん鵜呑みにしない慎重さが必要だろう。なにせ100年以上前の新聞記事である。大言壮語大風呂敷、見てきたような講談話は得意中の得意だったに違いない。江戸瓦版の伝統もある。
 明治25年といえば日本の書き物に口語体が出始めたころ。この『徳川制度』でも大半は江戸末期のくだけた文語体が主体で、ごく一部に突然口語の会話体が混じるというつくりになっている。この文体がこの時代の新聞のまじめさといかがわしさを同時に表現していて、読者が新聞を「その気になって」読んでいるときの息遣いさえ伝わってくるようだ。

 p315−19 
 穢多の一大族制
 関東の穢多、無慮一万戸、これを総轄したるものを弾左衛門という。弾左衛門はじつに関東穢多の中央政府ともいうべきにものにて・・・・・、試みにそが生活のありさまを問えばいわく、少なくとも万石以上の一諸侯に比すべきと。そが貨殖のありさまを問えばいわく、ほとんど「東洋のロスチャイルド」ともいうべき財産ありしと。そが第宅のありさまを問えばいわく、中雀門・大玄関構えにて、門外幾百の家はあげて皆その家来の居宅なりと。
 そが部下に対する権限を問えばいわく、生殺与奪ほとんど意のままにて徴税権・司法権を掌握して、幕府もまたこれを公認せりと。そが財源を問えばいわく、自らの社会たる穢多はもちろん、非人・座頭・髪結いの職などより徴金したるのみならず、皮類の専売権を有し、灯心草の耕作を十五か村に命ずるの権を有したるより、一種独占の甘利ありしと。・・・・・表面こそ世人は忌みて、ともに齢せざりけれ、裏面においては彼が金力を拝するもの者もとより少なからず、おもえば弾左衛門は幕府時代裏面の一勢力をなすものと見て可なり。
 (江戸には無慮三千人の非人ありて、車善七という首魁これを総轄せり。しかれども車善七も、また弾左衛門の支配を受けしものなれば、三千人の非人も間接に弾左の配下なりというべし。非人もまた世襲の小社会をなせども、その主たる範域は冠婚葬祭を出でず。(p347・非人の族制)
 図は磔刑にされる囚人が引き回しにされるさまを描いたもの。馬上の死刑囚を取り巻き、見物人から「警護」するのはすべて非人の仕事だったようだ。

 弾左衛門を単名と思うは誤りにて、弾は氏、名は左衛門、その姓は藤原なりとぞいうなる。その先祖は秦より帰化し、代々秦をもって氏とせり。・・・・その後この族より秦左衛門武虎というもの出で、武勇をもって平正盛に仕えたりしが、たまたま正盛の女のいとたおやかなる姿に懸想し・・・・、筆に思いを匂わしてほのめかしけれども、・・・・・はしなく漏れて正盛の怒りに触れ、討手差し向けられたる由。武虎いちはやくこれを聞き、もともとは関東こそ根拠なれば、究竟の隠れ場所とて鎌倉さして落ち延びぬ。これより武虎は鎌倉長吏(穢多の古称)の棟梁となりて、秦氏を弾氏と改め、みずから韜晦しけるとなん。その後、頼朝兵を関東に挙げるにおよびて、弾左衛門戦功ありて、頼朝下のご朱印を下されける。
 長吏・座頭・舞々・猿楽・陰陽師・壁塗・土鍋・鋳物師・辻目盲・非人・猿引・鉢たたき・弦指・石切・土器師・放下・笠縫・渡守・山守・青屋坪立・筆結・墨師・関守・鐘打・獅子舞・箕作・傀儡師・傾城屋
 以上のほかの者数多これあるといえども、これ皆長吏はその上たるべし。盗賊の輩は長吏をしてこれを行うべし。湯屋・風呂屋・傾城屋の下たるべし。人形舞は二十八番下たるべし。
治承四年九月 頼朝御印 鎌倉長吏弾左衛門
 上の文書は、鎌倉時代の特色として解し易からぬところなきにあらねど、要するにそのいわゆる「盗賊の輩は長吏をしてこれを行うべし」とあるは、長吏をして逮捕のことに当たらしむるの意ならんかし。その二十八番とは、前記の職業を指したるにて、これを長吏の下に属させて取締りをなさしめたるものとこそ知らるれ。