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米本昌平 『バイオエピステモロジー』(書籍工房早山)4/4

 生命は、炭素を含む複雑な分子の、種類が多くなり、濃度が高くなっていけば、
 大きな時間の中で必ず生まれる

 p248
 <生命=機械論>に対して、本書は<「細胞内自然」の内部は常温の熱運動をエネルギーの基底とし、全体が熱力学第二法則を一部破る方向にあるブラウン・ラチェット運動の連鎖体系を形成しており、ATPを主要なエネルギーの供給源とする、極端に効率のいい穏やかな反応系である>と考える立場をとる。
 ラチェットとは「掛け金」のような「逆回転防止金具」のことで、ブラウン運動による分子のランダムな振動に一定の方向を持たせる仕組みである。さきに見たデイビッド・グッドセルの大腸菌内の巨大分子やクジラの精子のタンパク分子の、複雑な形をした「突起」がこのラチェットの役割を果たしており、本来無方向のブラウン運動のエネルギーを一定の方向に導いて消費効率を高めていると考えられる。
 p293
 「細胞内自然」がどのような性質のものであるのか、もう一度整理をしておこう。生命はよくロウソクの炎に例えられる。しかし、そのような無機的な燃焼とは、細胞内のエネルギーの流れはまったく違う。
 たとえばメタンを自由燃焼させると1モルで200kcalの自由エネルギーが解放されてしまう。これに対して細胞内自然においてエネルギー供給を担う分子はアデノシン3リン酸<ATP>である。ATPが細胞内の水によって加水分解されアデノシン2リン酸<ADP>になるとき放出されるエネルギーが、生体反応系の全体がほぼ一方向に整然と進むための駆動力になる。「全体がほぼ一方向に進む」のがブラウン・ラチェット運動の連鎖体系に拠っているのは、さきほど言ったとおりである。
 ATPがADPになるとき受け渡される自由エネルギーは1モルで約7 kcal、メタン燃焼の約30分の1、人体という巨大な生命体が最終的に環境に捨てている廃熱は少し大型白熱電球1個分、たったの130ワットにすぎない。人体内で行われている化学反応プロセスを今の技術レベルの化学工場でやろうとすると、2km四方の巨大な敷地が必要になるという。当然そこで使われるエネルギー量は莫大なもので、出る排熱も大変なものになる。中国とアメリカの産業排熱を見ればよくわかる。細胞内自然のエネルギー効率の良さは、外界の自然とは全く異質なのだ。
 p313
 地球誕生の後、化学進化が進んで多様な分子が生み出され、その種類と濃度が増し、熱力学第二法則に抗する性質を帯びた“淀み”が生まれた。複雑な構造の分子の種類と分子数が増えれば増えるほど、この“淀み”はよりはっきりした形のものになった。
 ここで重要なことは、多様な構造の分子が一定以上の濃度で存在するかぎり、時間の進行とともにそのような微視的な“淀み”は必ず生じるという点である。つまり化学進化が進めば、前・生命物質は必ず生まれるということだ。生命の起源を探しにロケットを飛ばして小惑星までわざわざ行くほどのことではない。
 そして数億年がたち、今から38億年ほど前にその“淀み”のひとつが、熱力学第二法則に抗する性質を安定的に実現する特殊解に到達した。「細胞内自然」の出現である。以後の生物の歴史は進化論が扱うテーマである。