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井筒俊彦 「意識と本質」 4

 P207
 一つの「元型」は、顕現の形態が文化ごとに違うばかりでなく、同一文化の圏内においてさえ、多くの違ったイマージュとなって現われる。われわれは、自分自身の深層意識領域に生起するそのような複数のイマージュ群の底に、一つの「元型」的方向性を感得することしかできない。
 P214 
 深層意識はそれ自体多層構造を持っている。現代の言語学は、表層世界の下に潜む「無意識的下部構造」の強力な働きを認める点でユングの分析心理学と一致しており、「深層意識は象徴を構造化する器官なのであって、粗大な物質的世界がここで神話と詩の象徴的世界に変成する」とする。

A:表層意識  
Z:「意識のゼロ・ポイント」  
C:B領域に近づくにつれて次第に意識化への胎動を見せる無意識領域。Bに近接する部分は宋代中国の「易」哲学的に言えば「無極にして太極」の「太極」的側面  
B:言語アラヤ識領域。意味的「種子」(ビージャ)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる。元型成立の場所。
M:「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した元型はこのM領域で様々なイマージュとして生起し、経験的事物に象徴的意義を賦与したり、存在世界を一つの象徴的世界として体験させるといった独特の機能を発揮する。
 P216
 言語アラヤ識領域で生まれた「元型」イマージュがそのまま表層意識の領域に出てきて、そこで記号に結晶したものが「シンボル」である。「シンボル」はM領域を本来の場所とし、そこは「創造的想像力」が充満する内部空間。この「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界の只中にやってくる。このエネルギーの照射を受けると、それまで平凡に見えていた日常的事物(たとえばただの花)が、たちまち象徴性を帯びる。われわれ仏教文化圏における蓮の花を思えばいい。英語圏キリスト教徒にとって蓮はただ泥沼に咲く花<lotus>であり、「浄土」を象徴する<蓮華>を意味することはない。はるか紀元前のギリシア神話ではまた少し事情が違うが。)
 P221
 この、深層意識独特の存在分節の基礎単位が「元型」イマージュである。意識の深層が組織的に拓かれた人々、しかもこれに積極的意義を認める人々にとっては、M領域において「元型」イマージュが描き出す図柄こそ、存在リアリティーの最初の分節構造を露呈するものとなる。
 ただ理性的、合理的であることを誇りにする近代人の目には、「想像的」イマージュに由来する言語呪術が一個の未開人現象としか映らない。
 P229
 言語アラヤ識の呪術的エネルギーによって生起したイマージュが織りなすマンダラは、「元型」的「本質」の描き出す深層意識的図柄であって、経験的事物そのものの構造体ではない。表層意識の見る経験的事物は、そのままでは決してマンダラを描かない。深層意識的事態と表層意識的事態との間には、きっぱり一線が劃されている。
 P232
 あらゆる存在者の「意味の意味」、全存在の「深秘の意味」を内蔵する絶対無分節者のコトバは、無数の「意味」に分かれて深層意識内に顕現する。その第一次的意味分節の場所は言語アラヤ識。言語アラヤ識でいったん分節された意味が「想像的」形象(イマージュ)として顕現する場所はM領域。それらの「想像的」イマージュの、経験的事物としての顕現の場所は表層意識。この見方からすると、あらゆる存在者は、絶対無分節者のさまざまに分節された自己表出の形である。
 P245
 理性の捉える「本質」が、「それは・何であるか・ということ」であらわされる概念的一般者であるのに対して、元型的「本質」は「無」が「有」に向かって動き出す、その起動の第一段階に現成する根源的存在分節の形態であって、人間意識の深層構造そのものを根本的に規制する「文化の枠組」が濃密に反映している。キリスト教徒の瞑想意識の中に真言マンダラが決して現われないように。
 ただどの文化においても、人間の深層意識は存在を必ず「元型」的に分節する。そういう意味で「元型」は全人類に共通なのであり、根源的存在分節のありかたである。
 P247
 「元型」を心理学上の一つの要請にすぎないと考える人々も、「元型」イマージュの深層意識的実在性だけは、体験的事実として、どうしても認めないわけには行かない。
 P252
 (「正覚者」にとっての大日如来のような)無分節者の母の胎内に宿された胎児(一切の事物)は、その状態で出生のときを待っているわけではない。胎児は始めから生まれているのだ。
 一切が、全部同時に現勢態にある。潜勢態のひそむ余地は、そこにはない。だが、一切が現勢態にあるというような存在のあり方は、意識深層においてのみ体験される事態であって、時間性によって根本的に規定されている表層意識の見る日常的世界では、体験されることはない。つまり、存在世界の「元型」的「本質」構造を把握する能力は、表層意識にはない。
 p255
 禅者の「正覚」意識の見るがままに、全存在世界の「元型」的「本質」構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系、それがマンダラと呼ばれるものだ。
 マンダラは、第一義的には、意識のM領域に顕現するすべての「元型」イマージュの相互連関システムである。そしてマンダラのこの全体構造性は、一切の事物、事象を、縦横に伸びる相互連関の網目構造において見る仏教の存在観そのものに深く根ざしている。因果、理事無礙、事事無礙、等々の語が示唆するように、ここではいかなるものも、いかなるレベルにおいても、孤立してそれ自体では存在しない。すべてのものの一つ一つが輻湊する存在連関の糸の集中点としてのみ存在する。
 p272
 ユダヤ修行僧「カバリスト」の観照意識に現れる神も、旧約聖書の神と同じように、ある意味では、世界を無から創造するが、この無は「まだ何もない」という意味での外的な無物状態ではなくて、神そのものの底の底にひそむ根源的無である。
 神の内なるこの根源的無は、神がそこから神として顕現してくる究極的基底であり、いわば 「神以前」の非人格的リアリティーであって、この段階では神はまだ神ではない。根源的無それ自体の中に絶対無限定的に充溢する存在エネルギーが流出し、すべての元型イマージュの相互連関システムであるマンダラに似た「セフィーロート」体系として展開した段階において、はじめてわれわれは人格的神の姿を見ることになる。
 ここへ来て初めて「世界創造」が近くなる。徹底して「有」的であり、経験的事物の「無」の片鱗すらないユダヤの人格的一神教の神が、そこに立ち上がってくる。