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平野啓一郎 「かたちだけの愛」

 こういうものをもう一度書くと、誰も相手にしなくなるという二級品である。 思えば前作 『ドーン』から、平野は作家として深刻なエンジントラブルを抱え、危険な低空飛行が始まっていた。
 左足切断という、女優としての存在理由を失うような事故に遭い、それでも周りから“暖かい励ましと元気”をもらうことで人間として復活するという美しい話である。有名モデルの奥さんにせがまれて書いたのか、とさえ邪推する。
 女主人公久美子は『ドーン』のリリアン・レインと性格類型がよく似ている。いわゆる「過剰」な女で、世間とくに同性には嫌われる、どうということのない女である。タレントエージェンシーの内幕話がやたら出てくるのも、話を蓮っ葉にしている。民放ドラマのチープな脚本がすぐ書けそうな筋書きである。
 『葬送』と『決壊』で天才の全部を使い尽くしたのか、そういうことが起きるのか。大きなファンタジーを構築する力の埋蔵量では、村上春樹にはるかに及ばない作家なのか。
 ネット時代の新しい愛の形を書いたのだろうが、この作品のどこが新しいのだろう。この環境での新しさを書こうと思えば、コンピュータが人の下意識をどのように変形させつつあるかを示さなくてはならない。メールやスカイプやブログを何度登場させようと、それが電話の代わりに出てきて便利な時間節約の道具だけに使われていては、読む人には何の興味も引き起こさない。 
 メールやスカイプやブログが意識の自己操作や捏造、誤読をみちびいて、そのことで主人公の予期せざる結果が連続して、破滅または幸福に繋がっていかねばならない。『決壊』では 「コンピュータが関わる意識の変形」 への取り組みが見られ、読者は「平野はどこまで大きくなるか」と期待し続けてきた。
 平野は自分のブログの中で 「(谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』にインスパイアされた今回 )一人の人間の中の複数の分人の相互作用が、「陰翳のあや」として可視化されるようにした」 と言っている。しかし、この作品の誰の言葉やしぐさに、その「陰翳のあや」が可視化されているのだろう。「愛にめぐり合って」いかにものように変っていく、少女小説の主人公のような久美子の中にだろうか。メジャー作家としてあまりといえば、あまりのお手軽さである。 主人公は工業製品デザイナーだが、そのデザイン論もきわめて平板である。文字で書かれたものの形が伝わってこない。本を数冊読んで勉強したアマチュアの域を出ていない。
 夏目漱石が東大時代、十八世紀英文学を講じた『文学評論』に、『ガリバー旅行記』のスイフトと、当時文芸誌をいくつも主宰し、大人気のあったアジソンを比べたところがある。以下、スイフトは『決壊』の平野、アジソンは『かたちだけの愛』の平野である。

 「アジソンは、その作に世俗の低劣を嘲笑する多少の辛味を含んでいるにもかかわらず、大体はまずまず呑気に読める。暖かい縁側で日向ぼっこをしている感がある。大発展の途についた十八世紀イギリス社会は、平穏無事で結構だという気になる。少しは寒いのも吹くが、柳も日ごとに霞んでくるという景色である。しかも当人自身はそのような世人と社会の欠点を脱却しえたと信じているから、至極太平である。」
 「これに反してスイフトはどこまでも不満足である。自分の生きた十八世紀に不満足のみならず、十九世紀にも二十世紀にも不満足なのである。人間のいるところ、社会の成立するところには一視同仁に不満足を表する男である。世の中に対して希望がないからして世を救ってやろうの、弊を矯めてやろうのという親切心もない。あるところを読むときなどは、この国の冬の空を仰いで再び日の目は見ることができないかと心細くなったような気さえする。」