初版は一八三四年、ナポレオン没落と二月革命のちょうどまん中の時期である。p137ではナポレオンの敗北も言及されている。 『戦争と平和』に三十年以上先立つ。プロットは平板で微笑を誘うところもあるが、それはボヴァリーも同じ。ただバルザックは、フローベールもそうだが、田舎者のトルストイのように道学者ぶって読者を苛立たせない。十九世紀らしい大仰な言葉を使いながらも、「誠実な人が誠実に生きようとすると陥らざるを得ない喜劇」をきわめて丁寧に描く。読む人は作中人物の意識の運ばれ方を十分トレースでき、作者と作中人物の位置関係にも共感することができる。
翻訳ではあるが、形容語は美しく、比喩は故実におよんで味わいがあり、長めのセンテンスは複文構造をとっても主語述語の関係が明快である。
主人公バルタザールが分解に取り組む「窒素」は、この当時不可分の原子にいたるものとして考えられていたのだろうか。その不活性ゆえに原子そのものとする学者もあった。アラビアゴムも砂糖も澱粉も、粉末にすると全く同じ「定性」結果を示す、すべての自然物はもともと同一の原素(principe)を持っているはずだ(p114)という時代である。p223では、一八二○年頃、科学界はいまの原子核の陽子と中性子のことを思いついていたらしいとされる。
p193
あなたバルタザールはただ一本でそそり立つ大木と同じことで、まわりの地面を乾かしてしまうんです。あわれな低木だった私ジョセフィーヌは、そのせいで十分な高さに育つことができませんでした。
訳者によれば谷崎潤一郎は「婦人が崇高に見えるとき」というアンケートに答えて、死の床にあるジョセフィーヌのこの言葉をあげているそうである。天才に仕える悲しみの妻というのはいかにも谷崎らしい好みと言える。しかし「絶対」の概念がまだ十分に魔力を持っていて、神が死ぬまでにはまだまだ日があった当時、ついにその「絶対」の無意味を自覚できなかったバルタザールこそ崇高な喜劇役者なのではなかろうか。妻の悲劇性も公証人の欲得の恋も、バルタザールの喜劇が愚かしくも崇高であるからこそ成り立っている。
p212
公証人は、女の悲しみの上をカタツムリのように這っていって、彼のような職業のものには癖になっているお座なりを言った。家庭生活の重大な問題をごく無造作に処理することになれた男にありがちな、悲しみの神聖をけがすいやらしい言葉の筋をカタツムリのように残す、あのお座なりである。
動産、不動産の権利関係を一枚の紙切れで処理し、本業としてはその手数料だけを生活の糧とするが、内実は権利関係の基本になる法律が当時きわめて未整備であったため、一度唾をつけた哀れな女顧客に勘定ずくの恋をすることもできる者の、あのお座なりである。いまこのような恋ができるのは政治家と弁護士と、仕事を失えない美人を雇用する社長と、あとどんな職業の男だろう。