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フランツ・カフカ 「審判」

 学生のとき読んだ『変身』はまったく分からなかったが、今度はそうではない。夕暮れの濃霧のような係争人の架空世界がていねいに説明されて、読む人は「動かしえないもの」に対する無力感にどうすることもできない。全編が暗喩なのだろうがプロットは理解しやすい形としてちゃんとある。しかも最後に来れば、そのプロットは読者を退屈させないだけのものだとわかる。カフカは物語としての「意味」などには「世界」とおなじく一瞥もくれていないのだろう。
 p177
 「役人たちは訴訟の各部分にたずさわることが許されるだけで、その各部分は法律によってはっきり限定されている。・・・裁判はどこから来るとも知らず彼らの視野のうちに現れ、どこに行くのか分からぬままに進んでゆく。」・・・「審判」は近代官僚制の鉄の檻を書いたもの。マックス・ウェーバーはそれを無限分割責任というドイツ風の言葉で規定した。権威主義の小役人の延々と続くばかばかしいおしゃべりに、カフカの怒りがたぎっている。
 主人公Kが世界から要求されていることは、――今存在している告訴状の内容も知らず、いわんやこれからつけ加えられてゆくかもしれない部分などは全然分からぬままに、自分の全生活をきわめて細かな行動や出来事にいたるまで記憶の中によびさまし、これを叙述して、あらゆる側から厳密に検討し、正体の分からない相手に請願書を仕上げることである。自分が、ここになぜ生きているかも分からないのに、成人してからの行いをすべて書き記し、そのうえで「許してください」と這い蹲らなければならない。
 もちろん「正体の分からない相手」とは、自分がそこに生きている社会そのものである。小さな交通事故を起こして、「おまえは運転が下手なのに、なぜ車を買って事故を起こす遠い原因を作ったのか。その合理的な理由を三百枚の上申書にまとめよ。」と、検事から言われたようなものである。
 素人が数百枚の書類を書くためには、警察、弁護士、金貸し、代書屋、医者、詐欺師、保険屋、修理屋、新聞屋、近所の住人たち・・・無数のばかばかしい人間と会い、釈明しなければならない。注意力の遺漏によって危険の中に走り込まされ、その手当てのためには停滞し、精力は使い果たされ、それまでの仕事は確実に失われる・・・。そのようにしてKは、世界からの、罪状が明らかにされない告発によって「個」の経歴を自分で失い、統計でしか捉えられないアトムのひとりとなっていく。そしてそのようなKは毎週金曜はなじみの娼婦をたずねるような銀行員である。
 下級裁判所裁判官の個人心証による見せかけの無罪宣告。その後、別の裁判官のだれかが人一倍注意ぶかく関係書類を手に取り上げ、無罪宣告を突然取り消し、逮捕命令を出す上級裁判所。裁判所事務局間の交渉が無限に続き、書類だけがむなしく嵩を積まれる。全体主義社会の、誰にも責任を持って行けない官僚機構のなかで、個人は百人の不機嫌な大人に囲まれた十歳の子供のような無力感におびえる。
 カフカの、当時は体感できる市民は少なかったに違いない“奇妙な話”を、三十年後ハナ・アーレントは 「全体主義は世界観問題を具体化するような政治的プログラムを公にしない。なぜなら、そのような目標やプログラムは、その具体性のゆえに意見を生む余地があり、したがって意見の変更もまたありえ、忠誠の対象変更もありえるからである」 と明快に書くことができた。『審判』を学生時代に読んだかどうかさえ憶えていないが、読んでいてもまったく理解できなかったろう。

 p327
 門番は、自分のつとめによって、掟の入り口に縛り付けられていても、それは市民の犬のような自由とは、くらべものにならないほど勝ったことなのです。彼の品位を疑うことはこの世の掟を疑うことになるのです。
 「この世の掟」とは、人間に対する宇宙の無関心のことである。 岩波文庫の訳者は、後書きにおいて、(全体主義社会の)誰にも責任を持ってゆけない官僚機構への絶望にはまったく触れていない。カフカの文学は「オーストリアハプスブルクドイツ神秘主義、スラブ的な敬虔さ、ユダヤ人である自分・・・これらが人間の歴史を全部包含しているような一種独特な現実感の基礎の上にある」と言うばかりでは、ヨーロッパの歴史に詳しくない学生は何を教えられたことにもならない。作品全体に「言い知れぬ不安」が書かれているのではない。不安とはこちらが撃てば撃つほど弾丸のエネルギーを吸い取って厚みを増してゆく(SFのような)世界のバリアのことなのだ。