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カフカ 『城』(新潮文庫)

 4年前に読んだのだが、家族が一週間後に手術というとき、とても600ページは読み続けられる小説ではなかった。200ページであきらめた。テーマは「審判」とおなじだ。なぜ私たち自身が「いまこのようであらねばならないか」という不条理性。
 そのあと、たまたま二日後に読んでいた内田樹『子どもは判ってくれない』p284で、この不条理が<とりつく島のなさの不快感>として説明されている。いわく カフカの『城』が感じさせる不条理性とは、そこに城(役所)があり、役所に保護されたり寄生したりして暮らしている人間たちが現にいながら、それらの人々の誰ひとり、個人としての意見を持たず、(役所外の市民である)K の抗議や要請や問い合わせに全員が「それに答える権利が自分にはないんです」と哀しげに突き放す、こちらが諦めるしかない<とりつく島のなさ>のことではないか・・・・・・。
 この「とりつく島がない」という不快感は、城の役人が、その下っ端でもが、威張り散らして行政サービスを一切しないという意味の、住民の屈辱感のことではない。体に屈辱を味わわされればそれは反抗という行動への足がかりができる。そうではなくて、「とりつく島がない」不快感はそうした反抗心さえも一切奪ってしまう、「自分が今ここにあることの意味」の不明性なのだ。
 たとえば以下は K の問いに答える城の役人の言葉だが、文中の「伯爵府の執務上」を「公務」に置き換えると、私たちの「自分が今こんなところに生きていることの意味」の不明性がよく伝わってくる。

 p135
 「手落ちの可能性などまったく考慮に入れない、というのが伯爵府の執務上の原則なのです。この根本原則において、役所の組織は非常によくできています。急がねばならないときこそ、この原則は必要になるのです。全員がそうですから、自分の判断の当否について、他の人間に照会しても意味がありません。他の人はすぐに自分の手落ちの可能性を探りにきたのだと気づいて、全然回答をしてこないでしょう。」

 以前、このブログで、「『審判』は、マックス・ウェーバーが無限分割責任というドイツ風の言葉で規定した近代官僚制の「鉄の檻」を書いたものである。自分自身が「鉄の檻」のなかにいることに気づかない小役人の延々と続くおしゃべりに、カフカの怒りがたぎっている」 と書いたことがある。
 しかし、その「鉄の檻」は外の世界から降りてきたものではないことに気づく。「とりつく島のなさの不快感」に苛立つのは、Kも含め、もちろん私も含め、城に保護されたり寄生したりして暮らしている(エゴイストたらざるを得ない近代の)人間たち全員である。
 そして、(『審判』でも同じ名前だった)主人公Kのように、いまわたしたちは、過去の生活においてさえ「とりつく島」があったかどうかを知らず、いわんやこれから「とりつく島」が見つかるかなどは全然分からぬままに、自分の全生活をきわめて細かな行動や出来事にいたるまで記憶の中によびさまし、これを叙述して、あらゆる側から厳密に検討し、(自分がこれから「人間らしく」生きながらえさせてもらう)請願書を仕上げることを、(教会の司祭に代わった)「城の役人」から要求されている・・・・。自分が、ここになぜ生きているのかも分からないのに、成人してからの行いをすべて何千ページも書き記し、上申して、「どうかわたしを不快な気分のままに留め置かないでください」と這い蹲らなければならないのだと。

 ではあるのだが、カフカが怒る近代官僚制の鉄壁の責任回避システムは、現生人類だけが進化とともに手に入れた、無限の自己遡及による自壊を避けるための生化学機構の現れなのかもしれない。近代の官僚制は、古代の皇帝家産官僚制のあからさまな略奪機構の反省の結果生まれたもので、中世に数世紀をかけて誕生したその過程には、名指しできるような意識的な「悪のシステム」がはたらいたわけではないのだから。要するに専制君主制よりは近代君主制・共和制のほうが、少しはマシだろうとして歴史は「進歩」してきたのだから。
 だとしたら、カフカは「無限の自己遡及による自壊」を避けられないタイプの人間であり、カフカを愛読する人にとって、この世はほんとうに「とりつく島がない」ことになる・・・・・・。