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永井荷風 『濹東綺譚』(全集第九巻・岩波書店)5/5

 『すみだ川』に自分で書いているように、荷風は 「既に全く廃滅に帰せんとしている昔の名所の名残りほど、自分の情緒に対して一致調和を示すものはなく、わが目に映じたる荒廃の風景とわが心を痛むる感激の情とをまとめて、何ものかを創作せん」といつも企てた人だ。
 『濹東綺譚』も同じ主旨にのって、今度は 「・・・・・たえず荒廃の美を追究せんとする作者の止みがたき主観的傾向」を、隅田川べりの花柳街にかこわれたお雪という芸者の悲しくもけなげな身の処し方に、 「その抒情的傾向を外発さすべき象徴」として体現させた。小説の中では、お雪の人となりを語ることで、荷風が自分の「滅びの哲学」を具体的に述べているところがある。荷風好きの人はしんみりと物悲しくなる一節だが、一部には独善の匂いをかぎとる読者もいるだろう。

 お雪を贔屓にする「わたくし」は江戸末期の芸能、文芸、書画骨董に通じた小説家である。
 p168−70
 わたくしは既にお雪の生活を記述したとき、快活な女であると言い、その境涯をさほど悲しんでいないと言った。・・・・・それは、わたくしがお雪の家の茶の間に座って、お雪が客待ちの窓の前に座っているときの様子を暖簾の間から透かし見て、それから推察したものにほかならない。この推察はごく皮相にとどまっているかもしれない。
 ・・・・・しかし、そうしたわたくしの断言できることがある。それは窓の外の人通りと、お雪との間には一本の糸が繋がれていることである。窓の外は大衆である。すなわち社会である。窓の内は一個人である。そしてこの両者の間には反目しているものが何もない。その理由はなになのであろう。お雪はまだ若い。それゆえ窓に座っている間はその身を卑しいものとなして、別に隠している人格を胸の底に隠し持っている。その身を卑しいものとなすお雪から一本の糸が窓の外に出され、その糸が仮面を脱ぎ矜持を取り去った窓の外の社会に結ばれるのである。
 ・・・・・・わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。あるときは事情にとらわれて、女たちの望むままに家に入れて嫁のように扱ったこともあったが、しかしそれは皆失敗に終わった。彼女たちはひとたびその境遇を変え、身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教育しようのないだらけた女か、さもなければ制御しがたい気性の荒い女になってしまうのであった・・・・・・・。
 ・・・・・・、倦みつかれたわたくしの心に、お雪は過去の世のなつかしい幻影を彷彿たらしめたミューズであった。もしお雪の心がわたくしの方に向けられなかったら、久しく机の上に置いてあった一篇の草稿は、すでに裂き棄てられていたに違いない。お雪はいまの世から見捨てられた一老作家の最終作を完成させた不可思議な激励者である。
 しかしわたくしは過去の経験からお雪を家に迎えることはしなかった。その結果から論じたら、わたくしは処世の術に乏しいお雪を欺き、その身体のみならずその真情をも弄んだことになるであろう。わたくしはこの許されがたい罪を詫びたいと心ではそう思いながら、そうすることのできないことを悲しんでいる。

 濹東綺譚は1937年の作品。おなじく戦中戦後期の『ひかげの花』と『浮沈』もこの第九巻に入っている。芸者という社会の日かげに咲く花の浮き沈みを描いて、おもしろくなくはない話だが、その世界の情緒を詳しく書かれても私には何もいうことがない。また、「脂粉の巷の彼女たちはひとたびその境遇を変え、身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教育しようのないだらけた女か、さもなければ制御しがたい気性の荒い女になってしまうのであった」との荷風の女性観も、時代を捉えようとする作家はまさにそのゆえにこそ時代に縛り付けられるのだから、後世の人があれこれ言ってみても仕方がない。