幸子の夫・貞之助も、妻と同じような愚痴と嘆きと恨みと疑いがいっしょになって頭の中に空転する男である。貞之助のモデルは谷崎自身だったから、谷崎のどっちつかずな女性的性格は相当なものだったのではないか。容易に物事を決めつけない、優しいといえば優しい、優柔不断といえば優柔不断なところが、日本人の特に女性に圧倒的人気がある理由のひとつだろう。そのうえ圧倒的に読みやすい文章技術によって、読み手は何の努力もせずとも、書かれていることが頭の中にすうっと入ってくる。
上巻p246
(見合い当日、仲人・陣場夫婦の自動車の手配が多少強引であることについて、)貞之助は何となく不愉快さがこみあげてくるのを、顔に現さないようにするのに骨が折れた。今日は(谷崎の妻・松子がモデルである)幸子が体の不調を堪え忍び、多少の危険を冒しながら、今回の見合い相手・野村の顔を立てて出席するのであることは、昨日から通告してあるのだし、さっきからたびたびそれを匂わしているのに、陣場夫婦はそう聞かされながら一言半句も見舞いや同情の言葉を吐かないのが、なにより貞之助は不満であった。
もっとも今日は縁起を担いでわざとそのことに触れないでいるのかも知れないが、それにしても、蔭で幸子をいたわるという心持を示してくれてもよさそうだのに、あまりに気が利かな過ぎる。あるいはそんなふうに思うのはこちらの身勝手というもので、陣場夫婦の気持ちでは、自分たちの方こそ、今まで何回も延期々々で引っ張られて来たのだから、ここへきてそのくらいな犠牲を払ってくれるのは当たり前だ、という腹があるのであろうか。
ましてこれは誰のためでもない、こちらの妹のためであって、陣場夫婦は親切づくしでしていることなのだから、向こうにすれば、姉が妹の見合いのために体の故障をしのぶぐらいが何であろう、それを自分たちに恩にでも着せるように言うのはお門違いである、とでも思っているのであろうか。
貞之助は、こちらの僻みかもしれないけれども、この夫婦には、婚期に遅れて困っている娘を自分たちが世話をしているのだという(破談に終わった前回の仲介役・井谷夫人と同じような)考えがあって、彼らこそそれを恩に着せる気見合いがあるのではなかろうか、という風にも感じた・・・・・・・・・。
ところで、「細雪」というタイトルについて。谷崎が何かの折に知って使いたかった言葉らしいが、ふつうの読者は「雪子」からとったものであり、はかなく消える美しいもののニュアンスを感じるだろう。だがしかし、下巻になって末妹・妙子の看病をしている雪子が、病院での暇をやり過ごす本としてデュ・モーリア『レベッカ』を持ってきてくれ、と下女に言うシーンがある。私はなぜ『細雪』に「レベッカ」が出てくるのか、かなりびっくりした。レベッカは小説の主人公としては有名な「魔性の女」である。細やかな雪のようにはかなく消える女ではない。だから、一般的な解釈としては雪子とレベッカはイメージが合わない。
じつは雪子は「日本的なレベッカ」ではなかろうか。上・中巻を読む中で数回は感じたことだが、雪子はなかなか厄介な女性である。臆病で自分では電話もかけられず、危急のときにはほとんど役に立たないが、姉妹が内輪で他人の批評などをするときには鬼のようなことを顔色ひとつ変えずに言って、姉たちをやりこめる。
雪子もレベッカのように、細やかな雪のようにはかなく消えるだけの女ではないのだ。長女・鶴子、次女・幸子、四女・妙子は三巻全体にわたってそれぞれの性格どおりの行動をする。雪子だけが何度か「京都のイケズ女」みたいに陰口を小声できく。このあたり谷崎は誰にいちばん感情移入しているのだろう。
もっとも、女主人公たちの人物像を、あの人はこんな風、この人はそんな風と蝋人形のように作られても味がないし、夫と妹の世話に飛び回る幸子自身、 「きょうもまた 衣えらびに 日は暮れぬ 嫁ぎゆく身の そぞろ悲しき」 という自意識の歌をかつては詠んだ人ではある・・・。