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谷崎潤一郎 『細雪』(角川文庫)1/2

 後期の長編。次はどうなるという読み物としての楽しみもふんだんに盛り込まれて、大文豪がさすがの力を見せつける。なんど映画化されたことか。
 大阪船場じゅうに名を馳せた蒔岡家の美人四姉妹。その中の三女・雪子のいくつかの見合い話を中心にして、20世紀前半の上層家族の浮き沈みが美しい文章で語られる。谷崎62歳のときの作。
 細面のいかにもおとなしく楚々とした姿の雪子。勧められるまま見合いはするものの、肝心なときにハッとするような芯の強さとプライドを見せて、そろそろ婚期を逸しつつある。
 小説としては、彼女のいくつかの見合い話にそって、値の張る着物を裏地の凝り方で自慢するようなブルジョワ男女の生活風景が華やかにまとわりつく。しかしストーリーとして、思うにまかせぬ見合い話の筋が一本通っているのでとても読みやすい。かつての名家がだんだんと不如意になる中で、四姉妹がそれとあまり気づかずに時代に取り残され、見合いの相手に妙な男が出てきて脱線しかかっても、読者は大きな流れを見逃さずにすむ。(長女・鶴子はすでに東京で生活染みたオバサンになっているので「三姉妹」としてもよい。)

 「解説」によれば主人公の二女・幸子のモデルは有名な谷崎夫人・松子である。夫・貞之助のモデルは谷崎自身らしい。貞之助は婿養子だが、世に知らぬ人ない松子崇拝者であった谷崎は、家庭内では松子に頭が上がらなかったのではなかろうか。じじつ人物のしゃべる見事な上層階級大阪弁はすべて松子がチェックしていたというから、『細雪』の風合いづくりには松子が大きくかかわっていると言っていい。
 有名な商家の娘の見合いだから、相手の男に応じて互いの家の格や伝統、経済力をどう見るかという話が延々と語られる。それを仲人に語ったり、夫婦や姉妹間で噂しあったり、自分の頭の中で想いを往復させたりするのだが、その、現実と幻影、期待と猜疑、希望と幻滅・・・・が、それぞれの人間の中で入り乱れ行き交うさまの、男性読者が苦笑するほどしつこい写し方には、自身女性的なところがある谷崎が、松子夫人を、大げさにいえば『源氏』の紫の上のようにも理想の女性として跪拝していたことが覗われる。谷崎は三姉妹の末妹・妙子を「底に底のある性格」と書いているが、この言い方は谷崎自身にこそ当てはまるように思われる。

 いくつかの見合いの経緯は、幸子がああだろうかこうだろうか思い悩むさまを綴った長い長いセンテンスのなかで語られる。しかしその長尺のセンテンスが少しも分かりにくくないのには驚く。下に、幸子の頭の中から漏れ出た優柔不断の例を抜き書きするが、この長さのものを欧文脈で書かれたら読むほうはたまらないだろう。「解説」を書いた成瀬正勝は、こうした心理描写のねばりっこさには谷崎が耽溺した『源氏物語』の重畳的な文体が明らかに影響していると言っている。私は、晦渋といわれる谷崎の『源氏』ではなく、一番あっさりしているとされる円地文子訳を読んだだけだが、幸子の脳の中を写し取った文章を見れば、まさに成瀬の指摘の通りではないかと思う。

 中巻p259
 幸子は妙子が突然こんなときに上京すると言い出したのは、今なら幸子も雪子も一緒についてくるはずのないのを見越し、わざとそういう時期を選んだのではないかとも推測できるので、そう考えるとまた心配になってくるのであった。妙子は口では穏便に掛け合うと言っているけれども、もともとあの子は、自分はすでに子供ではないのだから、身の振り方を定めるについて、義兄さんの指図は受けない、自分のことは誰よりも自分がよく知っている、いったい職業婦人になることがどうしてそんなに悪いのであろう、東京の義兄さんたちはいまだに家柄と格式とかにこだわっているから、一家一門の中から自分のような女洋裁師が出ることを、ひどく不名誉かなんぞのように思うのであろうが、それこそ時代遅れの嗤うべき偏見ではないかと考えている。
 次第によってはこれで本家と絶縁しても構わないくらいな気で、東京の義兄とぶつかる下心があるのではないか。それだから、幸子や雪子に付いてこられるのは困るのではないか。そういってもそんな過激なことはとは思うけれども、時の弾みでどんな具合に脱線しないものでもない。もしそんなことになったとすると、義兄は義兄で、幸子が自分を苦しめるために妙子を一人で出して寄越したといういう風に、曲解しないものでもあるまい。こういう話で妙子が上京するというのに、幸子が付いてこないということは、解釈しようでは、義兄が苦境に陥るのを高みから見物してやろうという、意地の悪い気があるのだとも取れなくはあるまい。
 義兄にそう取られるのはなお忍ぶべしとしても、姉の鶴子までが、幸子はこいさん(妙子)が出てくるのを止めてでもくれることか、あんな乱暴なことを言わせに寄越した、とでも思って恨むようなことがあったら、幸子として立つ瀬がなかった。それならといって、妙子の計略の裏をかいて自分も東京へついて行くという手を打つとすると、(父が妙子自身のものとして遺したはずの)金をめぐる姉妹の争いの中に巻き込まれることは必然であり、そしていっそう困ったことに、その場合どちらに味方をしてよいか、彼女自身の腹が決まっていないのであった。・・・・・・・。