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夏目漱石 「彼岸過迄」

 p48
 敬太郎は、友人須永の母親のすべっこいくせにアクセントの強い言葉で、舌触りのいい愛嬌をふりかけてくれる折などは、昔から重詰めにして蔵の二階へ仕舞っておいたものを今取り出してきたという風に、出来合い以上の旨さがあるので、紋切り型とは無論思わないけれども、幾代もかかって修辞の練習をつんだ巧みがその底に潜んでいるとしか受け取れなかった。
 p137
 年の若い敬太郎の目には、人間という大きな世界があまりはっきり分からない代わりに、男女という小さな宇宙はかく鮮やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点に切り落として楽しんでいた。
 p214
 敬太郎の友人・須永は、軍人の子でありながら軍人が大嫌いで、法科を卒業しながら役人にも会社員にもなる気のない、いたって退嬰主義の高等遊民である。その須永が自分の優柔不断を合理化して、海図を読めない水兵のような敬太郎を煙に巻く。 「この間、素人学者で講釈好きの松本の叔父が 『お前のような感情は』 と暗に僕を詩人だと評したのは間違っている。僕に言わせると恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕が、思い切ったことができずに愚図愚図しているのは、何より先に結果を考えて取り越し苦労をするからである。千代子が風の如く自由に振る舞うのは、先の見えないほど強い感情が一度に湧き出るからだ。彼女は僕の知っているうちで最も恐れない人間である。だから、恐れる僕を軽蔑するのさ。」
 p215
 須永の話は少し敬太郎の理解を超えていた。敬太郎は詩とか哲学とかいう文字は、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、殆ど一顧に値しないくらいに見限っていた。その上彼は理屈が大嫌いであった。右か左へ自分の体を動かしえない唯の理屈は、いくら旨くできていても敬太郎には用のない贋造紙幣と同じであった。
  主人公である須永は「世の中と接触するたびに内側へとぐろを巻く性質」の男である。叔父松本によれば、須永は母親の実子ではなく、夫が小間使いに産ませたのを母親が隠して育てたもので、その母親の「作為」が須永を複雑で高等なひねくれものにした。母親の世間を恥じる「作為」が性格をねじらせるところなどは、すこし後代の強引なフロイト理論のモデルを見るようである。
 そしてその須永が最終章に到ると、須永はまるで漱石のいう近代的自我を超克したかのように、まっとうな「普通人」じみた手紙を何本も叔父・松本に書いて松本を安心させてしまう。読者は須永の突然の変容に驚かざるを得ない。この唐突な「改心」にはあきらかに飛躍が感じられて、振り上げた刀の納めどころの難しさをあらためて思う。
 『門』の宗助の参禅、『虞美人草』の甲野の常識人化と仕立ては同じである。二十世紀初期の大新聞小説の破ってはならないエンディングの作法だったのだろうか。事件らしいものがなにも起きない、小説としては地味な作品である。もちろん文章は一級品なので難解ではないが、読者は何を読み取ったらいいのか迷う。評価は分かれるのではなかろうか。