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ジョン・ダワー 「昭和」 1

 p3
 太平洋戦争に敗れたとき天皇退位の機会は三度あったが、いずれもマッカーサーによって退けられた(天皇が退位に積極的だったにもかかわらず、という意味ではない)。天皇が戦争の最高指導者として自ら責任を取る形で退位していれば、戦後政治における心理と神話は大きく異なっていただろう。いやしくも最高位にあるものとして、政治的および道義的責任は取らねばならぬことを天皇自身が示せば、以後の昭和時代を貫いた民主主義自体の根本問題も、時の為政者にそれほど簡単に無視されることはなかっただろう。戦後の昭和は最初の出発点において、恥ずべき人間をわれわれは排除できなかったし、排除しようとも思わなかった。
 p11−14
 国家機構だけでなく民間部門でも、戦後の組織は明らかに戦前の柱に寄りかかっている。経団連は1922年創設の日本経済連盟会にさかのぼるし、その後の戦争末期の統制会にたどりつく。日経新聞サンケイ新聞は戦時中の合併の所産である。自動車メーカーで純粋に戦後の創業はホンダだけだ。電通は人脈面での連続性を示す好例である。多数の旧軍将校と旧満州国官僚を雇ったため、その本社は「第二満鉄ビル」と呼ばれた。
 戦後の造船業は超大型戦艦の建造技術と切り離せないし、カメラ、時計、ミシンも兵器製造から転換された工場で作られた。このことは「経済生産にあっては物質的な財ではなく、人々の能力が問題なのだ」とのジョン=スチュアート・ミルの観察を裏付けてもいる。
 p18
 終身雇用、年功序列賃金、企業内組合も戦中に起源がある。重要産業での転職を防ぐため初任給や定期昇給をアメにして無許可の転職を禁止し、悪名高い産業報国会が「事業一家」のレトリックのもとに六百万人を傘下におさめた。
 p19
 戦時中、政府は小作人に対して生産に応じた一定額を直接支払うことで、地主と小作人の直接的な関係を破壊していた。このことが戦後の「保守的な政府による革新的な農地改革」をあれほど成功させた。
 p23−24
 戦時中、経済参謀本部―日本の資本主義を強力に指導している経済官僚機構の的確な比喩―があった。しかしこの参謀本部は国際社会に対して、なんであれ統一された国是、現実的なイメージの国家像は作れなかった。「一億一心」とか「事業一家」という錯覚のなせる戦時スローガン以外、彼らは理念ある国家目標を打ちたて得なかったからである。優柔不断で二心ある国と思われる理由の一つはここにある。
 国際社会に対して呈示する分かりやすい国家像は、しかし「外国」を正面きって相手にしたことのない国家指導層は、持ったことがなかった。争いはすべて国内の権力闘争だった。だから、まったく発想の異なる相手に対して一つの国として守り通さねばならないもの、という観念は闘争の当事者に浮ぶはずがなかった。優柔不断でも二心あるのでもなく、統一された国是の概念そのものが未知のものだったのである。千年におよぶ国境紛争、宗教戦争を戦ってきた西洋人にとって、日本とは、木と紙でできた家に住みながら石造りの国に戦争を仕掛ける、なんと身の程知らずの幼稚な国家に見えたことだろう。
 p26
 企業への忠誠と国家に捧げる犠牲・・・日本人の自己否定の倫理観は、用心深く仕込まれた社会的タブーから、新入社員訓練のような軍事的訓練をおもわせる儀式にまで及んでいる。
 p45
 魂の「純潔」にたいする日本人の執着には尋常でないものがある。それは結局、自己犠牲的な国民としての自意識なのだが、それは戦争に対する個人的責任感の欠如につながる。またそれは戦争に対する集団的責任感の欠落でもあり、他国民を犠牲にしたのだという認識があらゆるレベルで欠けていることを意味する。(人間としての責任概念を欠く天皇はその意味でも日本国民の象徴であった。)
 社会的災厄に対する個人的責任感の欠如と、それを単純合算したかのような集団的責任感の欠落は、今年の京都大文字送り火の中止騒動でも関係者集団の醜悪な意識のありかたとなって現れた。大文字焼きで焚かれる松の一部が東北地震で倒れた松の木だというので、放射性物質に汚染されていないか、燃やせば京都市の上空に放射性物質が撒き散らされるのではないかと「大文字保存会」の一部が恐れ、中止を決めたらしい。
 倒れた松は津波で根こそぎになったものだ。その枯れた松に、福島原発由来の放射性物質がその後降ったとしても、それが大文字で焚かれ京都の子供たちに影響する確率はいかほどのものなのか。月から隕石が降ってきてそれに直撃されることのほうを心配すべきであるような確率である。親たちの空騒ぎのほうが子供たちにははるかに強いストレスを与えるだろう。
 「放射性物質」という「科学」そのものであるような「情報」への民衆の妄信はいまさらどうなるものでもあるまい。「大文字保存会」なるものもそのような頑迷な老人の集団なのだろう。そして「一市民団体である保存会の決定にはひとことも容喙出来ない」とする京都市役所は、いつもの役所根性を発揮しただけである。
 しかし「放射性物質は危険」という図書館的事実のみを流し続けて、「流し続けることの社会的意味」を考えようとはしない大メディアのレベルの低さは嗤うべきである、というか恐るべきものである。民衆の九十%は「TVや新聞が言っていることだから」と信じて不安に浮動する社会意識を形成する。その不安は日本人の古層意識である自己否定に結びつき、多数=時の勢い=正義という、二十一世とも思えない前近代的意識のなかに人々を埋没させる。・・・そのことを知悉しながら(案外知らないのかもしれない)、視聴者の不安を助長するだけの迎合報道を続けるメディアほど社会を腐らせていく人間の集合体はない。