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山本義隆 『近代日本一五〇年』(岩波新書)3/3

 第5章 戦時下の科学技術

 国民健康保険の改革、食糧管理制度は戦中の国民総動員体制のなかで作られた。
 その冷徹で合理的な政策は、アメリカ軍の占領政策にも引き継がれた。

 p175

 軍部上層部は、日中戦争から太平洋戦争にいたる時期の国民総動員体制のなかで、蒙昧な神話的歴史観や空疎な精神主義を多用していたとしても、それだけで近代戦を戦えると信じていたわけではない。
 神話宣伝や精神主義は、高度の科学技術と大量の物資を必要とする20世紀の戦争において、自然科学(物理学と化学)と社会科学(経済学と社会工学)の要求する合理性を前にしては、たちまちその限界を露呈する。国粋主義者たちの荒々しい反科学主義は、じつは非協力の声を押しつぶす手荒な地ならしにすぎなかった。社会科学だけをとってみても、冷徹ながら合理的ともいえる国民皆保険政策、食糧管理政策が遂行された。そしてこの政策はアメリカ軍の占領政策にも引き継がれ、戦後長く続いた国家体制の基本になった。

 p190-2

 それはたとえば1941年の食糧管理制度に見ることができる。この食糧管理制度によって、それまで小作農が地主に現物で支払っていた小作米を政府に直接供出するようになり、地代相当分は政府から現金で地主に支払うように変更された。そして小作料は物価変動があっても据え置かれたため、戦時体制の進行とともに物価が上がっても小作農の実質負担は軽減され、そのうえ小作農には増産奨励金が与えられたために、小作農の生活向上が図られていった。

 明治以来の徴兵制は四民平等にもとづく制度であり、すべての国民を「天皇の赤子」と一元化して国への奉仕を強要するには、農村の小作人と都市の労働者、サラリーマンや自営業者との間に、過度の社会的格差があっては不都合だったのである。世界支配をかかげたナチスドイツが運命共同体の標語のもとにドイツ国民の社会的身分差別の撤廃をかかげたのも、同じ事情である。

 その意味では、戦時下の国民健康保険の改革も同様である。1922年公布の健康保険法では、加入資格は工場法と鉱業法の適用を受けている大規模事業所の従業員本人に限られ、農民は完全に放置されていた。
 これにたいして、日中戦争勃発直後の1938年の国民健康法制定は、農家における医療費の重圧を軽減させるためのものであった。ちなみに厚生省が陸軍の主導で内務省から分離独立して設置されたのがおなじ1938年で、ツベルクリン反応・X線検査・BCG接種という結核予防システムが採用されたのは翌39年である。戦争が「健民健兵」を必要とするかぎり、国家は国民の健康管理に配慮する必要があったのだ。

 こうして、1930年代後半から40年代前半の総力戦体制によって、たしかに、社会関係の平等化、近代化というパラドックスが進行した。経済学者の大河内一男が言ったように「社会立法によって労働者を保全することは、ただ労働力を量的に確保するだけではなく、産業社会そのものの機構を安定させ、円滑な再生産を促すための欠かせない手続きである。この意味で、社会立法は単なる倫理の問題ではない」。

 一部の学者・学徒が右翼国粋主義者反知性主義の非合理に抵抗しようとしても、じつは彼ら自身が社会全体の高度化をめざす科学の発展を第一としていた。その限りにおいて、総力戦・科学戦にむけた軍と官僚による近代化・合理化の攻勢に対しては抵抗する論理を持てるはずはなく、巨大な管理と統制に簡単に呑み込まれていった。