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「軽蔑」と「白い巨塔」

 一年ほど前、たまたま同じ日のTVで、フランスと日本の「古典映画」を二つ見た。ジャン=リュック・ゴダール「軽蔑」と山本薩夫白い巨塔」。二作ともほぼ同年、わたしが高校生だったころ、50年前に制作されたものだ。
 「軽蔑」の絵画的な画面構成の美しさと、難解さをわざと残すブリジット・バルドーら主役のソフィスティケートされた会話の魅力は、十分に今日でも通用する。
 最初は、大学時代に再上映されたものを京都で見たのだと思うが、アルベルト・モラヴィアの原作を読んでいなかったのもあって、なぜバルドーが「軽蔑」するのかさえ当時は一向に納得できなかった。ゴダールは何を衒ってこんなに難しい映画を作るのだろう、としか思わなかった。バルドーの魅力もわからず、ただのアバズレ女優ではないのだということが伝わっただけだったように思う。ゴダールの、女優の魅力を引き出す才能などに気づくには、「文明の屈折ということ」を考えようもない、田舎から出てきたばかりの学生には、あと十年、二十年の時間が必要だった。
 一方「白い巨塔」の少年漫画的なわかりやすさは、今の素裸のような韓国ドラマそのまま。田宮二郎は一本調子に悪であり、山本学は運命的な善人で、世の中はこのような善と悪の、のっぺりした平織りで成り立っているのだと、山本薩夫監督は観客を2時間半も引きずり回そうとする。善と悪が一人のなかで入れ替わったり、綾織のように上下や斜めに入り乱れたりすることはない。なんのことはない、勧善懲悪の紙芝居に俳優の動きだけが付け足された講談映画である。
 映画などのサブカルチャーは、その国の文化の洗練度合いを正確に反映する。軽薄な言い方をすれば、少なくとも映画ではフランス、日本、韓国で50年ずつの開きがあるということか。脚本、監督、俳優の、「非現実」への接し方、ドラマの中のシリアスと馬鹿馬鹿しさのバランスのとり方などは、学校と親だけで「教え」られるものではない。社会自体の自意識、観客も含めての自己韜晦のレベルなどが、映画ではごまかしの効かない形で現れてしまう。ゴダールは映画監督にしておくには天才に過ぎたということか。黒澤はどうなのだろう。そして今の二十歳は「軽蔑」をどう理解するのだろう。