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夏目漱石 「文学評論」(岩波文庫)下巻 1

 p20
 徳川時代の滑稽物を諷刺と解釈する人もいるが、私にはそうは思えない。真昼間に提灯をつけて歩くのは、世の中の暗黒な所を諷した皮肉と取れば取れないこともあるまいが、一方から言えば、鬘をつけて花見をするのと同じ気楽さとも言える。花見の趣向などは現在に満足を評する程度の最もはなはだしいもので、不平の表現でないことは明らかである。「ドンキホーテ」なども、多数の評家は諷刺と見ているようだが、私には花見の鬘同様な感がある。
 p22
 文学的表現である以上は、作者の評価が自然に読者の趣味に乗り移らねばならない。あたかも外部の圧迫によって、作者の評価をやむなく聴くの状態にあっては、文学的表現の極致とはいえない。
 p25
 およそ吾人の厭世に傾く原因のうちで、その最も大なるものは、いわゆる開化なるものの、吾人が吾人の生活上で欠くべからざるを覚ると同時に、おなじく開化なるものの、吾人に満足を与うるに足るものでないことを徹底に覚ったときである。
 p58(スイフト「桶物語」の諷喩について)
 ここから諷喩を取り去ってみて、地の文だけを味わってみると何の感興も沸かない。ヒューモアにもウイットにもならない。全く不合理不自然な動作として目に映ずるばかりである。宗教改革という事実に無理やりひきつけて、比喩を作った痕跡は歴然たるものである。宗教改革を説明するための比喩としては成功しているかも知れぬが、比喩のみを単独に評し去ると少しも面白くない。活動しておらん。
 p66(パンを肉にたとえた箇所について)
 これは疑いもなく化体説を愚弄した諷喩であるが、諷喩を離れて単独にこの文章を評しても、汁気がある。ヒューモアがある。ピーターが助役の説を真似て、パンは何の滋養でも含んでいると勝手に猛然と決め込んでしまうところに、充分滑稽の趣味がある。二人の弟の、始めはピーターに抵抗したのがだんだんその無体に服従していく様子まで、全体に生気がある。仮に諷喩としなくてもこれだけで面白いのである。
 p88−94
 「かたちだけの愛」というライトノベルを書いた平野啓一郎に贈りたい言葉。アジソンは、その作に世俗の低劣を嘲笑する多少の辛味を含んでいるにもかかわらず、大体はまずまず呑気に読める。暖かい縁側で日向ぼっこをしている感がある。大発展の途についた十八世紀イギリス社会は、平穏無事で結構だという気になる。少しは寒いのも吹くが、柳も日ごとに霞んでくるという景色である。しかも当人自身はそのような世人と社会の欠点を脱却しえたと信じているから、至極太平である。
 これに反してスイフトはどこまでも不満足である。自分の生きた十八世紀に不満足のみならず、十九世紀にも二十世紀にも不満足なのである。人間のいるところ、社会の成立するところには一視同仁に不満足を表する男である。世の中に対して希望がないからして世を救ってやろうの、弊を矯めてやろうのという親切心もない。あるところを読むときなどは、この国の冬の空を仰いで再び日の目は見ることができないかと心細くなったような気さえする。
 アジソンの扱う問題は人生の一局部の、上っ面のことである。だからこれを評して浅薄とも皮相ともいえる。スイフトの取り扱った問題は人倫の大本にわたっている。人間の醜と陋と劣と愚を鼻の先に突きつけ、美しい人や美しい花、美しい空と水と衣装と簪を泥だらけにしてみせる。だからこれを評して深刻とも痛切ともいえる。
 どっちが文学として価値があるかと訊ねたら、十人が十人ながら深刻のほうを選ぶだろう。しかし果たしてそうか。文学には娯楽という要素もある。面白みの全くない文学は成立することが出来ない。読まないでも罰金を取られる憂いのない文学書が、もし面白くないとしたら誰が読もう。
 アジソンの嘲笑する社会の欠点は無礼、無作法、悪習の類いのものであるから、嘲弄された階層、人々が癒すべからざる深手を負う気遣いはない。しかるにスイフトの声は真理かも知れぬが福音ではない。われわれを地獄に投げ入れようとする、人生の三分の二を焼き払おうとする。非常に不愉快な感じを起こさせる声である。・・・これをある調子に乗って押し詰めてゆくと、今度はアジソンのほうがスイフトよりも文学の目的にかなった仕事をしているかもしれない、ということになる。
 p315(解説)
 スイフトが毎年、自分の誕生日に祈った言葉、ヨブ記第三章。「われは安らかならず、穏やかならず、安息を得ず、ただ艱難のみ来たる」。