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鈴木健 『なめらかな社会とその敵』(勁草書房) 2/2

 ではその「なめらかな社会の敵」とは何なのか。怪書ともいえるこの難解な書物を要約するのはとても難しいが、「なめらか」の敵といえば、ごつごつとして手触りの悪いもの、目障り、耳障りになるものであるにちがいない。上記のソーシャルネットワークを説明したページから遠く飛んだところで、著者は現代の官僚制を、コミュニケーションを妨げる「膜」や、他者を支配的に制御しようとする「細胞の核」のような、「なめらかさの敵」の代表例としてあげている。
 p226
 今の社会は、直接民主制を導入するだけでも、なめらかなコミュニケーションが可能になって、大分ましになるのではないかと思う人は多いかもしれない。だがその人たちは、直接民主制でさえ、じつはある意味間接的な制度にすぎないことを知る必要がある。
 直接民主制とは、組織の意思決定をメンバーの直接の投票で決めるという方法である。だが、実際にその意思決定が実行されるかどうかは、官僚の実行に委ねられている。現代社会では、官僚制が自律性を持ち、自らの組織を肥大化させていることはマックス・ウェーバーを引かずとも誰もが痛いほど認識している。
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 じつは、直接民主制がある意味間接的な制度にすぎないことのいい具体例がごく最近の日本にある。東北大地震福島原発事故の後に作られた原子力規制委員会という組織である。原子力規制委員会は、それまであまりに電力会社よりに推進されてきた原子力発電事業をもっと国民の生活安全視点側にシフトさせるために作られた環境省の外局である。
 この官僚組織は福島原発事故の教訓を踏まえて、時の民主党政権によって立ち上げられた。原子力規制委員会原発の稼働に対して強い規制権力を法律によって与えられた。原発の稼働に関して「安全性」に疑念があると判断できるときは、「疑わしきは有罪である」を大原則として、日本の原発のすべてを稼働停止にできる権限を持っている。
 国民の電力使用に大きな影響を与えるこの強力な官僚組織のメンバーは、しかし国民が直接選んだ人間たちではない。国民が直接選んだのは民主党の議員たちに過ぎない。その民主党議員に任命された原子力規制委員たちは、当然のことながら民主党に意向に沿って仕事をした。そして特定の原発の安全性に関して委員会と電力会社で見解が分かれた場合は、電力会社の意見はものの見事に必ず粉砕された。
 怯えきっている国民は千年に一度とか四万年に一度とかの途方もなく低い確率で発生する災害を、「起きないと誰が言える?」という論理にすり替える。その子供じみた「世論」を錦の御旗として、我々が選んだのではない官僚組織がすべての原発を止め、先進国ではイタリアについて高い電気料金を国民に課している。
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 私たちの子供世代の異才の一人なのだろう、一九七五年生まれの著者鈴木健の気宇は大風呂敷的に壮大である。本書の中では「伝播投資貨幣」、「分人民主主義」といったいくつもの大構想が数学的モデルで提示されている。著者によればこのモデルは具体的なもので社会実験としても実行可能なものであるらしい。もちろん私は(自慢ではないが)行列や集合の数式は読めないので、実行可能ということがどういうことであるかわからない。(因みにだが、「分人民主主義」は作家の平野啓一郎が五年ほど前に小説の中で使っていた概念で、それほど目新しいものではない。)
 ソーシャルネットワークサービスが十分に行き届いたものになるときには、微妙な社会的気分伝染による「伝播投資貨幣」の異常顫動といった現象は果たして起きないのだろうか。起きるとすればそれは事前に数学的にモデリングできるものなのだろうか。
 コミュニケーションの不調だけが、私たちの社会を不全にしているのではないだろう。この本の中では、当然言及されるべきであった「家族システム」などの構想が、著者自らも言うように具体的モデルとして提示されていない。が、著者のお詫びはいいとして、ソーシャルネットワークサービスが行き届くことで、家族システムはどう「よりよく」モデリングされるのだろう? 「よい家族」とは、どんな高みから得られた俯瞰図なのだろう。
 世に盗人の種はつきない。原子力規制委員会は、時の与党の顔色を見て原発直下の活断層の有無を決めているのだから、かれらは最大の盗人団体かもしれない。世界を複雑なまま理解しようと提言する著者の心底には、自身も言うように、人間の中の「屑的なるもの」についての深い諦念がある。それはいいのだが、本書では芸術や宗教などについてもまったく手付かずであり、ましてそれらの社会的、人類学的基盤をどう今後数学的に記述できる見込みがあるのか、さっぱり不明である。読者の大多数が知っているように、価値に関する事柄を記述しないのが科学のよいところである。そして価値に関する記述を放棄しながら「屑的なるもの」についての深い諦念を持ち続けることがあまりいいことではないことは、二○世紀前半にドイツで証明されはしなかったか。
 これらに見通しが立っていないならば、「伝播投資貨幣」、「分人民主主義」といった大構想は、著者が序論で言っていた「人間の認知能力の限界を示す低コストの世界理解方法」の轍に、自らはまっているのではないか。
 著者は、それにもかかわらずそうした構想を述べたのは、本書が一○○年〜二○○年後の社会について、読者の頭の中にある種のクオリアを立ち上げられれば十分だったからだという。私の頭の中にも二十二、三世紀の社会が今よりは一ミリグラムほど生きやすくなるかもしれないというクオリアがわずかに立ち上がった。しかし一方で、この本もまた世界を複雑にするパズルのピースを一つ増やしただけかもしれないとも思う。それも、文系読者の読解を数式によってわざとはぐらかそうとする、珍しい形式のピースを。そう思ってブックカバーの著者写真を見れば、片光斜めアングルの撮影手法がいささかコマーシャルフォトっぽいともいえる。
 この本の評価は、アマゾンの読者レビューでは極端に分かれている。内田樹は「来たるべき青年の名著」となぜかほめちぎり、ある経済学部大学院生は「分かりやすすぎる膜とか核とか網とかのメタファーと読者をひるませる数式の間にひどい論理的飛躍があり、胡散臭い本である」とこき下ろしている。