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村上春樹 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』1/2

 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は村上春樹が世界的作家となって二作目の長編である。
 村上春樹が自分の作品に外国語への翻訳許可を与えたのは『羊をめぐる冒険』が最初だった。それまでの村上は、「音楽、とくにジャズに詳しく、日本の都市生活者のねじれた空気感をわかりやすい文体で書くことはうまいが、どこといって強いテーマ性を持たない」作家とされてきた。
 それが『羊をめぐる冒険』をターニングポイントに大きく変わった。以後の村上春樹は二十世紀後半の日本という「辺境の地」の「凡庸な矛盾」を書くことを放棄し、世界全体の中で生きる私たちとその「世界そのもの」との「勝敗がわかりきっている戦い」、あるいは「戦いにさえならない戦い」を書くようになった。そして、『羊をめぐる冒険』以降、村上春樹の小説は言葉本来の意味での「物語」となった。
 言葉本来の意味での「物語」とは、「人間ならざる不思議な人間が敵と味方に分かれて登場し、現実の時空ではありえない場面の中で彼らが戦い、彼らのどちらも決定的に勝利することはできず、いつも「 to be continued 」で、その話は終わる・・・・」というものである。
 ウィキペディアによれば、心理学者・河合隼雄は村上が、唯一、繰り返し対談した年長の知識人である。村上自身が 「僕にとっての「小説の意味」みたいなものをきちんと総合的にすっと理解し、正面から受けとめてくれた人は河合先生一人しかいませんでした。物語というのが我々の魂にとってどれほど強い治癒力をもち、また同時にどれほど危険なものでもあるかということを、非常に深いレベルで把握しておられる方です」 と語っているという。
 あらためて言うまでもないことだが、「小説の意味」みたいなものは、その作品中に、会話体にしろ地の文にしろ、段落の中ではっきりとしたフレーズになっていることはない。なっているとすればその作品が三流の証拠である。「小説の意味」みたいなものは、その作品の中でのいくつかの言葉が尋常とは異なる扱われ方をされ、それらの言葉が読者に尋常とは異なるインスピレーションを与え、そのインスピレーションが読者と世界のかかわりに尋常とは異なる差異を感じさせるものを生み出していく・・・・、そういうかたちでしか現われない。
 逆に言えば、すぐれた作品の中で、作者が意図的に扱うある言葉の群れが心に問題を抱えた読者に強い治癒力を持つことは臨床心理学的に十分な蓋然性がある。またそれらの言葉が読者(河合隼雄にとっては患者)にインスピレーションを与えすぎて、患者を苦しめる、または社会に害悪を及ぼすこともあり得ないことではない。
 中村うさぎが今年二○一三年の七月十三日に、朝日新聞のコラムでこの社会の鈍感さを口を極めて罵っていたことだが、東北の災害以後、「心を一つに」という物語がNHKと大新聞によってこの二年半、毎日、国じゅうで語られている。意図的に扱われるある言葉が社会に害悪を及ぼすことがあることに、メディアはわざとのように気づこうとしない。気づこうとするどころか、たとえば中村うさぎの嘆きを「掲載した」ことで、彼らは自分に免罪符を与えているのである。「反対意見もちゃんと載せていますよ」と。 
 「心を一つに」することは、それ以外の価値観を国民に許さないということである。悲劇的災害にせよ国民的英雄譚にせよ、国民の「心が一つ」になってしまうことは、その社会が単一の価値観を人々に強制するということである。原発事故が人災であると全国民が「心を一つにして」決めつけることは、複雑系そのものであるような原発事故の責任体系を「どこかに犯人は必ずいる」と探偵小説のように「解決」しようとすることである。悪いことの背後には必ず真犯人がいるという子供じみた思考法は、もういい加減卒業したらどうか。
 そのような「心を一つに」して安全・安心をシュプレヒコールし、悪いことの背後には必ず真犯人がいるとした人民が、東京都知事選や都議会選で原発再稼働を支持する不可解さ。また、二年前「すべての原発廃棄運動を支援します」と社告で宣言した朝日新聞の、昨今の自民の原発再稼働気運に寄せる蚊の鳴くような批判記事・・・・・・。そろそろメディアは、「人間ならざる不思議な人間が敵と味方に分かれて」相戦う不思議な世界のことをときどきは書いたらどうか。
 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、意識の核に別の思考回路を組み込まれた「私」が生きる「ハードボイルド・ワンダーランド」と、「僕」が自分の影を奪われて押し込まれた「世界の終り」という、ふたつの不思議な世界が「パラレルワールド」として交互に語られる小説である。
 このパラレルワールドは最終章で一つに結び合わされるのだが、一つに結び合わされることはべつに何らかの幸福を意味しない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はたしかにおとぎ話なのだが、このおとぎ話はハナ・アーレントがいう「人民がいつでも再演可能な陳腐なピカレスク・ロマン」なのだろう。「人民がいつでも再演可能」というのは、人民はある状況の中では激しい希望を持って自由を求め続ける者たちであるし、状況がほんの少し変わるだけで自由を叩き潰す側に立つ者でもあるからだ。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」では「私」が、「世界の終り」では「僕」が、自分を取り巻く全世界に対して戦いを挑む。「全世界」である相手は与件として「私」や「僕」を含む全体なのだから、「私」や「僕」は戦いに勝てるわけがない。本来、戦いにさえならない。村上がエルサレム賞受賞スピーチで語った有名な「壁と卵の戦い」が、『羊をめぐる冒険』よりももっと荒唐無稽な形で、だからさらに危険な「物語」として、この作品でも繰り広げられる。「もし世の中のシステムという固くて高い壁と、そこに叩き付けられている人民というか弱い卵があったら、私は常に卵の側に立つ。いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つ」と述べたスピーチである。