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中井久夫 『治療文化論』(岩波現代文庫)

 著者中井久夫は'13年の文化功労者に選ばれた、臨床精神医学会でその名を知らぬ人ない人である。中井氏の著作を読むと、「解説」にもある通り、臨床精神医学について中井氏が従来の思考法とはまったく異なるパラダイムを持っていることが明らかになる。
 中井氏の論考のほとんどは臨床家に向けて書かれている。つまり読者はある程度専門家としての経験を積んできた医師たちであるのだが、彼ら若手の臨床医たちはそれまでの思考の枠組みを揺さぶられ、時には自分の考え方を根底から改編することを迫られるのではあるまいか。
 中井氏の基本的スタンスは、『甘えの構造』の土居健郎や『異常の構造』の木村敏と同じく、「健常者」である医師が「異常者」である患者を「治療する」という西欧の「正統的精神医学」は、分裂病患者の症状緩和に親和的ではないとするものである。
 発表当時あまりにも異端的で衝撃に満ちていた、精神の病についての患者親和的な臨床的視点の多くは、今日では経験を積んだ臨床医のあいだでは「常識」となって定着しているらしい。つまり知らぬ間に読者=現場の臨床医に吸収され、骨肉化しているわけで、若手臨床医には自分の見方のどこまでが中井氏によって切り出された視点であり、どこまでが目の前の患者との話の中に見出された症候なのかが分からなくなる・・・・・・、中井氏は、それほどの深い影響を日本臨床精神医学会に与えている人であるということである。

 中井氏の臨床医としての天才性は、次の数行に簡潔に記されている、分裂病患者と自分の位置関係に決め方の特異さにある。
 P23
 精神医学は「オレハナラナイゾ」、「オレトハチガウゾ」の精神医学からはじまった。癲癇など器質的異常を伴わない患者の精神医学は特にそうであった。このパラダイムは目下、「自分もひょっとしたらなるかもしれない」「自分がならなかったのは僥倖であろう」「人はみな、類として五十歩百歩だ」の(私たちの目指す)精神医学と「パラダイム間の闘争」を行いつつある。犯罪学については、「私もひょっとしたら」の犯罪学は緒についたところではなかろうか。少なくとも神戸市においては若手弁護士と少数の精神科医は、その眼で犯罪、逸脱、飛行を見直そうという勉強会を始めている・・・・。

 科学的「創造の病い」と宗教的「創造の病い」
 p42−9
 わが国近世の宗教史のなかで、心ひかれるものに、まさに(宗教的)「創造の病い」というべき憑霊現象がある。これは、幕末から第二次大戦にいたる社会全体の転形期において、市井の中年女性にいわゆる新興宗教を創始させたものである。この(宗教的)「創造の病い」は、(科学的)「創造の病い」と同じく、近代西欧精神医学にはあまりなじみのよくない「疫病学的に純粋でない」ものである。
 社会全体が転形期にあることと、これらの教祖の関係は明らかである。黒船前後の社会騒擾が天理教祖の中山ミキを生んだと言え、地租改正が農村の階級分化と構造変化を生み、牛肉・牛乳が食糧に取り入れられた明治十年代が大本教祖の出口ナオにほぼ対応する。また第二次大戦末期の直接間接の、戦争による受難が天照皇大神宮教祖の北村サヨを励磁した。
 近代精神医学からみれば、おそらく中山ミキは純粋な憑依症候群に近いだろう。「われは天理王命(てんりおうのみこと)なるぞ」と宣言して以来、彼女でなく天理王命が彼女を通して語るからである。出口ナオは満田久敏医師のいう意味での「非定型精神病」(満田サイコーシス)に入るのではないか。自らの腹中に語る声を定常的に聞いた北村サヨは、さらに「(幻覚)慢性妄想反応」に近いだろうか。いずれもむろん間接的なうえにも間接的な推定である。
 むしろ目を奪われるのは彼女らの共通性である。彼女らはいずれも勝気な女性であって、家族的困難を「誰にも甘えられないもの」と見定め、自らが背負いきって超人的忍耐と、連続長時間の不眠と超人的労働を示した。出自は極貧農層でなく、近い先祖は中農あるいはそれ以上であった記憶が、本人・家族・村に存在した。そして日本の中農層が一般にそうである以上に識字者であり、農婦の狭い現実に生きつつもひそかに知識をむさぼるように吸収している。
・・・・・・・、こういった中山ミキや出口ナオや北村サヨの対応物を近代西欧に求めるとすれば、エレンベルガーのいう「創造の病いを患う天才」たちになるだろう。フェヒナー、フロイトユングウェーバー、ウィーナーといった自然・社会学者たちである。 
 「創造の病い」とはエレンベルガーにいわせれば、抑うつ神経症が進行し、それらを通過して何か新しいものをつかんだという感じと、それを世に告知したいという心の動きと、確信に満ちた外向的人格を得るという人格変容をきたす過程である。「一般の通常学者」が「創造の病い」を経て「パラダイムをつくる大学者」に変容する過程ともいえる。