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河合隼雄 『影の現象学』(講談社学術文庫)2/2

 河合隼雄に支えられている村上春樹
 村上春樹河合隼雄を尊敬していたことは有名だ。日本人では河合隼雄だけが、登場人物が日常世界と非日常世界を行き来する「物語世界」の必然性を深く理解してくれたと、村上自身が何度も言っている。
 本書後半に「影との対決」という章がある。本書において河合隼雄村上春樹について一言も触れているわけではないが、この章を読むと、村上春樹河合隼雄の一見不思議な結びつきがナルホド!とよく分かる。しかもこの理解を仲立ちしているのは、なんとヘルマン・ヘッセデミアン』という、一見ありえないようなつながりである。

 村上を世界的作家にした長編小説に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』がある。「世界の終りの街」と「ワンダーランド」の二つの物語宇宙が歪んだ鏡像のようにパラレルに描かれるのだが、その「世界の終りの街」の語り手「僕」は、自分の影を引き剥がされた状態でこの街に連れてこられる。「僕」はその街の不思議さを下のように説明する。語られる「影」と「自我」の関係の多面的な不気味さは、河合隼雄の本書の内容をみごとにトレースしている。
 「その、剥がされた心は一角獣によって壁の外に運び出されるんだ。一角獣は人々の心を吸収し回収し、それを外の世界に持って行ってしまう。そして冬が来るとそんな自我を体の中にため込んだまま、死んでいくんだ。
 「彼ら一角獣を殺すのは、冬の寒さでもなく、食糧の不足でもない。彼らを殺すのは、この街が押し付けた自我の重みなんだ。そして春が来ると、新しい獣が生まれる。死んだ獣の数だけ新しい子供が生まれるんだ。そしてその子供たちも成長すると、この街にきた人間の自我を背負って、同じように死んでいくんだ。それがこの街の完全さの代償なんだ。」

 P255−7
 二重人格、二重身の現象に典型的に示されるように、「二」は私たちの精神のあり方に大きい意味を持っている。私たちの意識の構造を考えると、善悪、天地、父母、精神と物質などの対立する事象や概念が、それを支える柱となっていることがよく分かる。・・・・・・・二という数字は生成の過程欠くことのできないものであるが、この「二」の意味が、「二つの世界」を表わすものであるとしてヘルマン・ヘッセデミアン』の冒頭にみごとに描かれている。
 「片方の世界は、ぼくの生まれた家だった。いあや、それどころか、もっとせまいものだった。じつをいうと、ぼくの両親を含んでいるにすぎなかった。この世界は、大部分、ぼくにとってなじみの深いものだった。その名を父母といった。その名を愛情と厳格、模範と訓練といった。この世界には、なごやかなかがやき、あきらかさ、そして清らかさが所属していた。ここにはおだやかな、やさしい言葉、洗い清めた手清潔な衣服、よき風習が、住みついていた。
 「ところが、もう一つの世界は、すでにぼくら自身の家のまんなかで、はじまっていた。そしてまったく様子もちがえば、においもちがうし、ことばもちがうし、別のことを約束したり要求したりした。この第二の世界には、女中や丁稚がいたし、怪談や醜聞があった。そこには、途方もない、心をそそるような、おそろしい、なぞめいた事物の、雑然とした流れがあり、屠殺場だの、刑務所だの、よっぱらいだの、がなり立てる女たちだの、子を産みかけた牝牛だの、たおれた馬だのといったようなものがあり、強盗や殺人や自殺などの話があった。これらすべての、美しくてものすごい、あらあらしくて残酷なものが、ぐるりに、すぐとなりの横町に、すぐとなりに家にあった。
 「そして奇妙だったのは、この二つの世界が、どんなに境を接し合っていたか、どんなにちかぢかと寄り添っていたか、である。もちろん、ぼくは明るい正常な世界の住人だった。僕の両親の子だった。しかし、どこへ目と耳を向けても、いたるところにあのもう一つの世界があった。そして、じつは、ぼくは、ときおりは、この禁じられた世界にいるのが大好きだったのだ。そしてしばしば、明るいところに戻るのが、ほとんど一段と美しくないところへ、退屈なあじけないところへ戻ってゆくように思われたのだ。」
 ・・・・・この二つの世界の往復譚は村上春樹のほとんど原モチーフといっていいほどのものではなかろうか。