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花田清輝 『鳥獣戯話』(講談社)1/2

 ちょっと考えれば誰でもそうだと気づくのだが、「歴史」は西洋でも東洋でも、ある王朝の編纂になる「正史」を中心にした既成神話の集積したものである。中華帝国の正史はすべて前代を滅ぼした後の帝国が自分たちの側から書いたものだし、そのことは支配人民にとっては当たり前のことだったという。中国王朝の皇帝が、ほぼ例外なく彼が興った地方の大盗賊の首領であり、毛沢東はその最大のものであるといえば、習近平が率いるただいまの中国の所業も合点がいく。
 僕たちの若かったころの文芸評論家・磯田光一によれば、
「僕たちの自我をかたちづくるもの自体が既成神話の集積であることを見抜いていた花田清輝にとっては、人間の生活空間そのものが神話の集積であるといってもさしつかえない。ましてや、支配者個人の自己正当化の集大成である王朝の歴史書が自己正当化の神話に支えられていなくてどうするだろう。花田清輝の書くものが難解に見えるのは、この既成神話が支配している「歴史」という「現実」があまりに強固で、その神話のベールを剥がすためには、読者に子供のときからの生活空間を疑わせ、自己正当化という「嘘」を暴露する強靭なレトリックを必要とするからだ。」
 『鳥獣戯話』は、「歴史」としてはほぼ固まっているとされる武田信虎・信玄父子の相剋についての有名な父親追放譚を、そうした花田清輝が中世古文書に関する博覧強記とアイロニカルなレトリックを縦横に働かせて面白く仕上げたものである。ここには取り上げないが、およそいわゆる史実に関する「真書」と「偽書」の関係のあり方など、花田の古文書を読み込む力にあらためて圧倒された。
 第一章 群猿図
 p14‐23
 猿という動物は、武田一族の盛衰興亡と切っても切れない関係があった。そもそもあの風林火山という軍旗にれいれいしく書かれていた孫子の言葉そのものが、信虎が孫子よりもむしろ猿の群れに暗示されて採用したものである。「動かざるごと山のごとく、侵略すること火のごとく、静かなること林のごとく、はやきこと風のごとし」などというといかにも立派に聞こえるが、つまるところ、それは猿の群れの戦い方なのである。一匹の指導者のもとに、一糸乱れずに行動する野獣の群れの戦い方なのである。
 ・・・・武田信玄が城らしい城をつくらなかった理由を説明する際にしばしば引用される「人は城 人は石垣 人は堀、なさけは味方あだは敵なり」という彼の和歌にしても、信虎の「猿は城 猿は石垣 猿は堀、なさけは仇あだは生き甲斐」から来ていることは間違いあるまい。なぜなら、あらためて繰り返すまでもなく、甲州の田畑の作物をかたっぱしから荒らしまわっていた猿の群れの戦略戦術を若いころ数十年も目の当たりにし、それを自分の戦い方に取り入れて豪族たちの反抗に終止符を打ち、それ以来甲斐の国に城らしい城をつくることを禁じた最初の人物は、息子信玄ではなく、父信虎であったからだ。
 ・・・・猿の群れの示すところによれば、戦場のかけひきとは要するに、進むべきときにいっせいに進み、退くべきときにいっせいに退くことを意味する。ところが当時の武士たちは「ぬけがけの功名」が大好きであって、全体の作戦など眼中になく、ただもう、群れを離れて己の勇敢さをひけらかす機会のみをうかがっているあほらしい連中ばかりだったから、進むこととともに退くことも知っていた信虎のために豪族たちがひとたまりもなく敗れ去ったのは怪しむに足りない。
 ・・・・一例をあげれば、退却作戦はむずかしい。退却の場合、指導者猿は、最後まで踏みとどまって敵と戦うか、あるいは敵を仲間の逃げた方向とは反対の方向へ誘導していかなければならない。それは群れの先頭に立って、まっしぐらに敵に向かって突っ込んでいくのに比べると、はるかに見ばえのしない仕事であるにもかかわらず、はるかに勇気や知恵を必要とする仕事であることはいうまでもない。
 ・・・・信玄と信虎が不仲になった理由の一つに、信玄が(実父である信虎を追放する二年前、)十九歳の初陣のとき、後衛部隊を指揮して海野口城を攻め落としたにもかかわらず、信虎が信玄を少しもほめず、信玄に不満を抱かせたことがあるといわれている。
 信玄は父親とはかなり性格もちがっていて、当時の武士たちの例にもれず己の勇敢さをひけらかす機会をいつもうかがっている十九歳の若武者だった。
 ところが父親は、息子に後衛部隊なら後衛部隊らしく、逆襲に転じたりしないできちんと全部隊の退却を援護してもらいたかっただけなのだ。猿の群れにならっていうならば、まず若頭猿の覚えなければならない仕事は物見なのだ。
 ところが信玄は、最初から指導者気取りであって、物見など、誰にでもできる仕事と思っていたらしいのである。そして信玄にとって不幸なことに、あるいは幸福なことに、取り巻きの武将たちもまた、鎌倉以来の「抜け駆けの功名」にはやる石頭どもばかりだった。