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河合隼雄 『講演集 物語と人間の科学』(岩波書店)

 河合隼雄村上春樹との対談(『村上春樹河合隼雄に会いに行く』・新潮文庫)のなかで、村上が 「国際紛争と日本のかかわりをどう考え行けばいいのか、ぼくはまったくうまく説明できないのですよ」と嘆いていたとき、こんなふうに答えていた。
 「日本は、まあ、非常にずるい方法をとっているのですね。でも、武力で世界が血を流さないようにするためには、世界中がもっとずるくなったらいいんじゃないかという気がしているんですよ(笑い)。それを日本人は、自分たちはずるいやり方でやっているんだと言わずにずるいことをしているから、非難されても防戦一方になっているんですね。
 ぼくがずるさと言っているのは、論理的整合性だけで(自分の行動を)説明しようとするのは無理だと思っているからです。人間はすごく矛盾しているんだから。すごく矛盾した存在であることを基礎に据えてものを言っていったほうがいい。アメリカ人は湾岸戦争で日本の行動を非難しましたが、日本に言わせれば日本はアメリカに示された不戦憲法に従ったのですからね。兵隊を出さないことについてアメリカにどうのこうのいわれる筋合いはないわけです。(西洋人の言う「論理」だけで「世界」や「人間」をすべて説明しようとすると、このようにすぐに無理・矛盾が出てきます。)
 本書は、このような「論理」に対する日本人と西洋人の態度の違いをいろいろな角度から解説した講演集。読んでいると、第二次大戦直後の国民総懺悔論やファッションやスポーツ観戦の集団主義や、地震後3年で原発が続々再稼働されることや・・・・・、なんでそうなるの?といった現象がよく理解できる。なにせ、「他者には理解できない私」と「私には理解できない他者」の対立構造を、わが国民は生得的に欠いているのだから。私とあなたは「そんなに違うところがない」群れの中にいるだけなのだから。

 P34 日本人の自我
 このごろ日本の古い物語をよく読んでいるのですが、『落窪物語』などを読んでいると、ひとつの文章の中で主語がたびたび入れ替わるんですね。読んでいるうちに、どれが主語なのかはっきりしなくなってくる。
 日本語だからなんとなくはわかるんですが、誰が、どうして、どうなったから、こういう結果になったとは、ちょっと読んだだけではよく理解できない。現代語訳を見て初めてああそうかとわかる仕掛けになっています。
 『とりかえばや物語』というのもとてもわかりにくいのですが、こちらは英訳がありますので、きれいに主語、述語、目的語がありますから、そういう意味ではこちらが一番わかりやすいですね。
 私はこれらの本を読んで、もともと日本人は誰がどうしたとはっきりわからんままで、みんなは聞いていたのではないかと思っています。『落窪物語』とか『とりかえばや物語』とか『源氏物語』もみんなそうでしょう。そういう物語を語っているときに、聞き手は、その主語は誰でしたとか、そんなことは思わずにフワーッと聞いていたのではないか。(考えてみれば、日本語の<自分>という人称代名詞は<わたし>でもあり、<あなた>でもあります。同じ単語を一人称にも二人称にも使います。関西の話し言葉では今でもごく普通に使われています。主体と客体が同じ語であるなど、西洋人にはおよそ考えられないことです。『落窪』とか『とりかえばや』とか『源氏』の時代には、もっと多くの人称名詞がそうだったのではないでしょうか。)
 つまり人間と人間がはっきり切れて、主観と客観が切れて、主語が客語に対して何をするかということは<二の次>の世界に、あの人たちは生きていたのではないか。そういう(近代西洋の世界観では想像することが難しい)ものすごい意識の流れみたいなものを体感できるということが、ああいう物語を読むということになるのだと、私はこのごろ思っています。その私たちは、近代西洋の世界観では想像することが難しい意識の流れを体内に、ごく普通にもっていた人たちの子孫なのですね。現代でも、地方の農村や山村、漁村に行けば、父親の代まではそんな意識の人が多かったであろうと思われるような人はいっぱいいます。 (私の住む地方都市・福井では、交差点に入ってから右・左折のウィンカーをつける車が多い。移り住んでまだ日の浅い私は、だから突然ウィンカーをつけられて強いブレーキを踏むことがある。しかし「あなたはなぜ後ろの車に自分の曲がる方向をあらかじめ教えようとしないの?」とたずねると、「はあ?」というような顔をされる。たぶんこの街の人々は、河合氏の言うように「主語が客語に対して何をするか知らせなければということは <二の次>の世界」に、近代の世界観では想像することが難しいものすごい意識の流れのなかに、まだ生きているのだろう。)

 p112-15 隠れキリシタンに受け入れ難かったこと
 徳川時代キリスト教弾圧を生き延びた隠れキリシタンの人たちが、明治時代になって長崎県の離れ小島で発見されたことがあります。その人たちがひそかに伝えていた『天地始之事』という、十五章からなる「聖書」があります。1931年になってはじめて研究者が世に知らしめました。信者がそれを長崎のサルモン神父さんに「私たちはこういう大事なものを伝えてきたんです」と持っていったところ、神父さんは「あまりにばかげたことが書いてある!」と言って、信者が帰ったあと捨ててしまったという逸話が残っています。
 「あまりにばかげている!」とはどんなことが書かれていたのか。『天地始之事』は、私たちが読んでも唸ってしまいそうな、数多くの聖書エピソードの日本的、土俗的、仏教説話的な歪曲に満ち満ちています。これは私は、隠れキリシタンの人たちを非難する意味でいっているのでは決してありません。徳川250年の弾圧の中ではこうならざるを得なかった、ただし「こうなる」その「なりかた」がまことに私たちの「日本人性」をよく映し出している、という意味です。
 西洋人の神父に受け入れがたかった「最悪」の歪曲は、隠れキリシタンの人たちが原罪という考え方を消してしまったことです。
 『天地始之事』によると、アダムとイヴが木の実を食べたときに、デウスが現れて、それは「悪の実」だと言います。ここまではバイブルと同じです。ところが、『天地始之事』では、そのあとアダムとイヴはデウスに何とかもう一度「バライソ=天国」の快楽を受けさせてほしいと願います。「するとデウスは聞こし召され、さもあらば、四百余年のあいだ後悔すべし。そののちバライソに召し加ゆるなり」となって、罪は、長年かかるにしても、許されることになってしまうのです。
 それについては、踏み絵をしなければならない隠れキリシタンの人たちにとって原罪という考えはあまりに荷が重かったからだという説が一般的ですが、わたしは一歩進めて、原罪消滅が日本人の心性の非常に深いところと結びついているのではと考えています。
 隠れキリシタンの生活を見ますと、「暦」がものすごく大事になっています。この日は何をしなくちゃいけないとか、この日は悪い日だからなにをしてはいけないとか・・・・・、ああいう「暦」です。
 隠れキリシタンの人たちが暦を大事にしたということは、踏み絵によって犯した罪を一年間かけて一生懸命償おうとしたのだということです。暦を大事にして、春夏秋冬の償いの果てにまた踏み絵がくる。そしてまた新たな一年が始まる。ぐるぐる回っていきながらだんだん換わっていくといいますか、いかにも農耕民族の生活誌が中心軸に出てくるようなパターンが大切になる・・・。
 世界を広く見ますと、人間には輪廻的な、円環的な人生観と、直線的に変化していくという人生観の二つがあって、日本人の場合は、多くの方が言っていますが、どうしても円環的なパターンが強い。どんなことをやっても、なんとかやっていたらまた元へ帰ってくる。しかも隠れキリシタンの人たちは踏み絵ということがあったから、許されるということがなかったら生きていけなかったのではないでしょうか。
 許されることがなかったら生きていけない。年に一度必ず踏み絵の罪を犯すのだから、それは一年かけて償おう。原罪という重い罪もある「そうだ」が、一年かけて熱心に毎年の罪を償い、それを四百年も続けることで許していただこう・・・・、デウスのバライソにむかって一直線に進んでいこうとしない、元来が仏教心性の人々は、そう考えるのが自然だったように思います。