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カズオ・イシグロ 『遠い山なみの光』(ハヤカワepi文庫)

 いまやノーベル賞候補と言われているカズオ・イシグロは5歳のとき父親の仕事の都合でイギリスにわたってそのままイギリス人になってしまった人である。だから日本語の読み書きはほとんどできないらしい。その「日本語が不自由な日本人」(国籍はイギリス)が書いた、1950年ごろの長崎を舞台とする小説。全体がとても人工的な“美しい”会話体でつづられている。もちろん原文は英語だが、小野寺健氏訳の日本語が「几帳面な外国人が書いた正確な日本語」みたいに作られていて、外国人作家による「日本人の心理小説」という微妙なものに仕上がっている。訳文が抜群なのでさらさらと読めるややこしい話である。

 <主人公・悦子と最初の夫・二郎>、<悦子と、悦子が英国人と再婚後ロンドンで生まれたニキ>、<二郎と二郎の父・緒方>、<緒方と、原爆で一家四人を失いいまはうどん屋を細々とやっている藤原未亡人>、<悦子と、あてにならぬアメリカ男にかけようとする佐知子>・・・・・、何組かの人間関係が出てきて大半のページが会話体で進行するのだが、その会話ではいわゆる対話・ディアレクティークというものが成り立っていない。登場人物たちは自分の思いをしゃべりまくるだけで、相手の言うことには上の空でまったく聞いていない。

 『解説』を書いている池澤夏樹の言葉をかりれば、会話する二人が自分のボールを投げるばかりで相手の球を受け取らないのでは、会話はキャッチボールにならない。対話にならない。
 登場人物たちが饒舌にしゃべりながら、対話が成り立っていないことを証拠立てるかのように、それぞれの人たちの話しぶりは本当に丁寧である。あの時代、長崎という地方都市ではこんな丁寧な口調の話し方をしていたのだろうか、それも気取った上層階級ではない人たちが・・・、と思うほどの言葉を使っている。
 子は父に対して敬語をきちんと使い、引退した父はそうした子に対して「私にそんな気遣いをするより、第一優先なのはお前の明日に会議の成功なのだからね」などという。と言いながら、食事のあとで将棋を指し、「子供のころからお前は戦略というものをたてられなかったね」と口を滑らせて、子供の腹を煮えくり返らせたりもする・・・・・。こうした会話の調子は、著者カズオ・イシグロが紙背にひそませている「人間はやはり分かり合えない」というモチーフを際立たせるために、翻訳者小野寺健がわざと作り出したものらしい。読みながらふと、「『東京物語』の原節子のようなそらぞらしい話し方だ」と思ってしまった。

 「分かり合えない」ことは、他人とだけではなく、自分とでも事情は変わらない。二郎と結婚して景子を身ごもっているとき悦子は自分は幸せだと思い、舅の緒方にもそう言っていた。しかし、それから何十年か経ったいま悦子は二郎を懐かしく思い出すことはない。思い出すのは夫が日曜にも会社に出ることが多く、寝室で話をすることはほとんどなかったといったことばかりである。当時なぜ自分は幸せだ思っていたのか理解できない。
 悦子は、そしてこの小説の登場人物はすべて現状追認主義者である。過去のある時点で自分がとってきた行動に間違いはなかった。だから今ある自分の立場はその結果であるから、いまの自分はそのまま受け入れなければならない。いま自分は世の中との間に大きなズレがあるように思うが、それは「時代が変わった」のであるから自分の責任ではない。・・・・・こういうのを自己愛とかご都合主義とかいうのだろうが、この小説の登場人物たちにそれ以外の何が選べただろう。
 カズオ・イシグロの文体はいつも静謐そのものだ。臓器採取用につくられたクローン人間の哀しみを書いても、ナチス外相にしてやられた英国貴族の老執事の無念を書いても、そして本書の、分かり合いを不可能にする個人のエゴイズムを書いても、文体はまったく同じである。作者という全能の創造者の匂いが一切しない静かな文体は、牧場の緩やかな起伏に夕日が沈もうとする、あるいは朝日が昇ってこようとするイギリスの田園風景を切り取ったようである。
 カズオ・イシグロが描くその田園の風景は、人との交感を一切しない。「美しい日本と私」というようなアニミズムをまったく感じさせない。人が人とさえ「分かり合えない」なら、田園と交感できるはずがない。世界が現在あるように変わっていってしまうのなら、人はそれを静かに追認する以外に何ができよう、それを「自分のものとして感じる」ことほど女々しいものはない、と言っているようである。