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村上春樹 『やがて哀しき外国語』(講談社文庫)

 村上春樹は1991年の初めから2年半、ニュージャージー州プリンストンに住み、プリンストン大学の東洋文学科で、半分研究学生のような半分教員のような生活をしながら、長編小説を書いていたようだ。どの作品か調べればすぐにわかると思うが、それはたぶん『やがて哀しき外国語』には何の関係もないと思うので、ウィキペディアには行かずじまいにしてある。

 このブログでも紹介した『遠い太鼓』がヨーロッパのいろんな国や地域を何日かずつあるいは何週間かかけてうろうろ訪ねながら、行った先で起きた身辺雑事の根っこにあるものを、あまり掘り下げることなく村上春樹の平明・流暢な文体に載せたのに対し、『やがて哀しき外国語』では一つ所に2年半もいたのだから、平明・流暢な文体は相変わらずだけれども、ニュージャージー州の学園都プリンストンがここでは、あとがきの著者の言葉を使えば、旅行者の第一印象を語る望遠レンズではなく、不十分ながらも一応適応した「生活者」の第二印象、第三印象までをカバーする標準レンズの視線で切り取ることが意図されている。

 p46--8 

 大学村スノビズムの興亡

 僕はこのプリンストン大学ではまあゲストのような存在だし、作家ということで大学社会のヒエラルキーからはちょっと外れた存在なので、生活態度が多少ポリティカリーにインコレクトでも「まああの人は作家だから」と許されるところがある。生活態度が(ポリティカリー)コレクトというのは、簡単に言えば「後ろ指をさされない」ということだ。

 でも「これはコレクト、これはインコレクト」という風に考えて暮らしている生活も、思いようによってはなかなか悪くないところがある。特に日本みたいな「何でもあり」の仁義なき流動社会からくると、かえってほっとする部分もなきにしもあらずである。ここプリンストンでは、余計なことを考えずに細かい部分をコレクトにそろえておけば、それで済んでしまうわけだから。「とにかく」NYタイムズを読んでおけばいい。「とにかく」ニューヨーカーを取っておけばいい。「とにかく」ガルシア・マルケスとイシグロとエイミー・タンを読んでおけばいい。「とにかく」オペラを聴いておけばいい。「とにかく」ビールはギネスにしておけばいい。

 ところが日本ではそう簡単にはいかない。たとえばオペラなんて流行じゃないよ。今はもう歌舞伎だよ、という風になってしまう。情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。そういう風に神経症的に生きている人々の姿を遠くから見ているだけでもけっこう疲れる。これはまったくのところ文化的焼き畑農業ではないか。やられずに生き残ることだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映ることだけを考えて活動し生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。

 そういうことを考えると、保守的だろうが、制度的だろうが、階級的だろうが、このプリンストン村みたいに「とにかくここはこうしていけば」というのがあれば、日本の文化人だってずいぶん楽だろうにと思う。LAで何が流行っていようが、NYで何が流行っていようが、ここプリンストン村では普通の人はあまり気にもしていない。そういう流動性、感覚性を黙殺し、淡々と我が道を行くという部分が社会にはある程度必要なんじゃないかという気がする。