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岸田 秀 『ものぐさ精神分析』(中公文庫)8/8

 <ナルチシズム論>

 子供時代の全能感を、
 私たちはみんな、いつまでも保持していたい

 p304−317
 ナルチシズムは、感覚運動器官がきわめて未熟な状態で生まれてくるという、人間に特有の現象である。生まれ落ちたとき、人間の幼児は、現実を知らず、対象を認識できない。現実と非現実(幻想)の区別、自己と対象の区別は存在しない。あるいは、現実は非現実の中に、対象は自己の中に含まれ、渾然一体となって不分明な全体を形成していると言ってもいい。この状態が、ほとんどそのままの形で、生後ほぼ一年間続く(不完全な形では、あるいは人によっては、二十年、四十年、一生続くとも言える)。
 まだ現実を知らない幼児の、対象と区別されていない自己は、現実的諸条件に制約されていないから、あらゆることが可能である。つまり全能である。また、知らないことがあることを知らないのだから、全知である。また、対象の存在、他者の存在によって限定されていないから、この自己は、無限に開かれた世界のいたるところに偏在する唯一無二の存在である。要するに、それは、神である。
 しかし、人間の幼児は、遅かれ早かれ、不本意ながらも現実を発見することになる。人間にとって、現実とは、まずはじめ、おのれの全知全能性を傷つける憎むべきもの、否認したいものとして現れる。幻想我とくらべて、現実我はなんと無力でみじめで、限られた存在であろうか。だが、現実は否認しようもない。
 人間誰しも本音を言えば、幻想我こそ保存したいのであり、現実我の保存は厄介で面倒な、気が進まないがやむを得ない仕事なのである。幻想我への執着を思い切ることは彼にとって不可能である。したがって、幻想我と現実我の対立を最終的に解決するには、むしろ現実我を消滅させる方が容易である。つねに幻想我の邪魔をし、その足を引っぱり、いちいちうるさい条件を付ける現実我を消してしまえば、高揚した全能感と無限の至福につながる幻想の自画像を永久に保存することができる。
 現実我を消し去るとは、つまり自殺することである。自殺にはさまざまな動機がからんでいようが、わたしの見るところではこの動機がいちばん強い。動物が自殺しないのは幻想我と現実我の分裂がないからである。とくに鬱病患者の自殺は、この動機に発するものであって、抑鬱感情とは、無限の高みにのぼった幻想我の観点からみじめな現実我を見たときの感情であると思う。三島由紀夫は、派手な仕方で現実我を滅ぼして、幻想我としてのその名の不滅化を図ったのであろう。虜囚の辱めを避けて死を選ぶのも、同じ動機からであろう。

 人間のみに芸術があるのは
 幻想我と現実我の分裂があるからである

 芸術は純粋なナルチシズムの世界である。そこではナルチシズムが公然と許され、ナルチシズムがナルチシズムであるがゆえにとがめられることがない。日常生活の中でナルチシズムにかられてうぬぼれたほらを吹けば、人々の嘲笑と軽蔑を買う。しかし、芸術はほかのところでは許されないことが許されるおとなの遊園地である。
 しかしながら、言うまでもないことだが、芸術も、幻想我と現実我との葛藤の解決策として、万全ではなかった。これまで何世紀かにわたって、芸術は、一種特有な手段で幻想我と現実我との葛藤を解決しようとし、一部の人々にはその有効性を認められてきたが、とどのつまりは失敗だったようである。もはやこれからは、それが信じられていた時代のような傑作は、芸術のどの領域においても生まれないであろう。大勢をかたちづくる人々にとって芸術家は恐ろしい存在でなくなり、祭り上げたりして遠ざける必要はなくなった。現代の芸術家は安全な人間であることが「まじめな」人たちにばれてしまったのである。
 かつて宗教は幻想我と現実我との葛藤を解決する手段として、絶大な力を持っていた。それが今では、滅び去ってしまってはいないものの、昔日の栄光を取り戻す気づかいはない。芸術も滅びてしまいはしないだろうが、同じような運命をたどるであろう。
 今年4月9日付の毎日新聞『余禄』に、東京渋谷の「ボッティチェリルネサンス」展のことが載ってあり、コラム記者は「メディチ家などフィレンツェの金融業はやがて衰退したが、その美は何世紀もの時を超えて人の胸を打つ。私たちの時代は何を後世に残せるだろう」と月並みなことを書いていた。岸田秀にならえば、「宗教と同じく芸術が昔日の栄光を取り戻す気づかいはない。宗教と同じく滅びてしまいはしないだろうが、同じような運命をたどるであろう。」