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養老孟司 『脳と魂』(ちくま文庫)

 養老孟司と(少々胡散臭い感じがする)臨済宗の僧侶で小説家でもある玄侑宗久の対談本。脳を含む身体の、部品の集合ではない生物のシステム性について、リアリティのある議論がされているが、全体をリードするのは圧倒的に養老孟司である。養老孟司の世界認識の深さと、それを表現にするときの論理のダイナミズムにあらためて驚く。

「私」は変わるのか、変わらないのか
 p164-5
 養老  西洋人が、どうして霊魂不滅で「変わらない私」があるって信じられるかというと、それは最後の審判のとき、すべての死者が墓から起き上がって、個人一人ひとりが主の前で裁きを受けるという、西洋人にとっては二千年の大前提があるからでしょ。それが西洋社会の「個」の根本なんですね。
 玄侑  ええ、でも、その変わらない自己があった場合、なぜ懺悔が認められるのかが分からない。自己が変わらないなら、罪を犯して刑期を終えて出てきたような人間を信用する根拠がないわけです。あれだけのことをやったんだから信用できない、とは普通思います。「変わらない私」の前提と、どう整合をとるんでしょう。
 一方、仏教的な考え方をすると、人は大いに変わると言える。殺人とか重大な犯罪者が社会に戻ってくるとき、今後はどうなるか分からないけれども、とりあえず別人だよと言うことが、仏教の哲学からは言える。
 養老 ここでいう「個」というのは「人間性が変わる、変わらない」こととは別のことだと思いますよ。「個」は「人間性が変わる、変わらない」より次元が一つ上だと思います。「変わる、変わらない」はそれこそ懺悔に関係しているのであって、人間の欲深さを諦念として認めたうえで、懺悔という茶番を制度として作ったのではないでしょうか。
 いっぽう「個」の考え方は、善をなすのも悪をなすのも基本的には個人の決断、判断によるのだから、奴隷であろうが王侯であろうが天国での救済を願って自分一人で努力しなけりゃならない、というものです。キリスト教側からは、「とりあえず別人」を認める仏教こそ無責任というかもしれません。

 記憶とは何か
 p215-8
 玄侑  動物の記憶については、ある程度人間から連想できるんですが、植物はどうなんでしょう。「サボテンの記憶」についてコロンビア大学が実験したらしいのですが、3日前にサボテンを蹴った人が通るとすごい興奮状態になった・・・・そのサボテンにつけた嘘発見器みたいな装置に信号が記録されたということです。
 養老  植物も生物ですからね。サボテンの場合、興奮してトゲを飛ばすのは筋細胞ですね。その筋細胞の中に一種の記憶の機構があっても、不思議ではないと思いますね。
 玄侑  筋細胞は、皮膚細胞などと違って一生入れ替わらない。神経細胞も一生入れ替わりませんね。だから筋細胞の中に何らかの記憶の機構を想定できるわけですね。
 養老  そういうことです。ただし、筋細胞を作っている物質はたえず入れ替わりますよね。だけど、システムとしてはそのまま存続しています。ですから、どこかに(この場合記憶という)しくみを残しておくことは可能なはずなんですよ。
 でもそれはおそらく、たとえば分子が1000個以上になったらタンパクを作り始めるとか、そういう単純な機構じゃないはずです。ちょうどわれわれの脳の記憶と同じような機構を、筋肉でも物質レベルでやっていると思います。われわれが運動を続けると、その履歴として、一個の細胞の中に収縮タンパクが増えていって、筋細胞が太くなるのと同じことです。そうするとそういう、記憶というか履歴を蓄積するシステムが植物にあっても不思議はないですね。でも、じゃあそれは具体的にどのようにして可能かっていうことは、まだまだ、当分わかんないです。
 玄侑  DNAを構成している塩基だって、熱にも酸にも弱いから変成しやすい。そんなものに、永続する記憶が入っているとは・・・・・。
 養老  いや。だからそうは思ってないです。「記憶が入っている容器」なんてものはないですよ。記憶とかは「あることに対する電気パルスの流れやすさ」くらいに大雑把に定義できますが、自発性とか魂とかはぼくは定義できないんです。だから、システムとしか言いようがない。われわれは実際には物質の塊なんだけど、いわゆる石ころとはまったく違いますよね。死体を考えていただけるとよく分かります。
 死体はわれわれとまったく同じ物質でできているんです。ところが片方は生きていて、片方は生きていない。だからその違いは何だ、と。死体には電気パルスは流れない、くらいのことしか今は分かっていない。「システム」という言葉でごまかしているだけなんですが、要するに表現がないんですよ。福岡伸一さんなら「片方は物質の入れ替わりの動的平衡が成り立っており、もう片方は成り立っていない状態である」というかもしれません。