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マルグリット・ユルスナール 『ハドリアヌス帝の回想』(白水社)2/2

 詩人・歌人でもある訳者・多田智満子は「解説」でハドリアヌスの一生をこう略述する。
 プブリウス・エリウス・ハドリアヌス  76年1月24日生  138年7月10日死  スペイン出身のローマ皇帝。異常な多才の人。軍人・旅行家、かつ有能な行政家。文学・哲学に心を傾け、ラテン語よりもギリシア語をたくみに語るヘレニストであった。皇帝直属の偉大な官僚組織を新たに組織し、それまでは解放奴隷によって占められていた高官の地位に騎士階級の人々をつけた。

 『執政法令』を条文化し、「永劫の法」としてこれを全帝国の憲法とした。トラヤヌスが征服したブリタニアに旅したときは、スコットランドイングランドを分かつ大城壁を築き、「北方蛮人」の文明界への侵入を防いだ。すべての地域で、(税制改革などを通じて)諸民族を寛大に援助し恩恵をほどこしたが、ユダヤ教に対する理解不足から、エルサレムギリシア化しようとして失敗し、反乱を防げなかった。・・・学術と建築の保護者として図書館をつくり、講堂を建て、神殿を築き、凡庸な詩を書いた。死の床にあって、『さまよえる いとおしき魂よ』にはじまる絶唱を遺した。

  本文p46-7

 わたしは姿美しい肉体のような柔軟さと、おのおのの語が直截なさまざまの接触を証拠だてている語彙の豊富さゆえに、ギリシア語を愛した。また、およそ人間の語った最もよき言葉が、ほとんどすべてギリシア語で語られているゆえに、この言語を愛した。

 ほかにも多くの言語があることはわたしも知っている。・・・エジプトの祭司が彼らの古代の象形文字を見せてくれたことがあるが、それは言語であるよりもむしろ符号であり、世界と事物とについてのきわめて古い分類の努力を示すものであり、滅亡した民族の墳墓の中の言語であった。ユダヤ戦役の際に律法教師ヨシュアが、自らの神に取りつかれたあまり人間的なものを無視したエジプトの信徒たちの文章を字義どおり説明してくれた。
 軍隊ではケルト人の言語に親しみ、彼らの歌のいくつかは今でも覚えている。しかしそのものたちのちんぷんかんぷんな言葉は、主として人間的言語表現の基礎となるものの予備的な蓄えとしてしか、わたしにはその価値を感じられない。

 それに反してギリシア語はすでに自分の背後に人間の、また国家の、体験の宝を持っている。イオニアの僭主たちからアテナイの扇動政治家まで、ゲシオラスの純粋な厳しさからディオニシオスの過剰まで、デマトラスの裏切りからフィロポイメンの忠実さまで、われわれのひとりびとりが同胞を傷つけ、あるいは助けるためになしうるすべてのことが、少なくとも一度は、ギリシア人によってなされたのだ。
 われわれの個人的な選択についても同じことがいえる。ピロンの犬儒主義からピタゴラスの神聖な夢想にいたるまで、われわれの拒否もしくは同意はすでにギリシア人によってなされている。帝国のラテン語の奉献文や埋葬の碑銘の美に比肩しうるものはないし、わたしが帝国を統治してきたのもラテン語によってである。しかし、われわれの悪徳も美徳も範を仰いでいるのはギリシア語である。