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丸山真男 『「福沢諭吉・文明論の概略」を読む』上(岩波新書)1/3

 名著の30年ぶりの再読。今の政治学者、メディアの論説家は「一党派に与せず」を臆面もなく旗印にする。その結果はもちろんメディア露出度の高い体制を擁護することになる。体制は、たまには失言したりするものの、たいていは耳触りのいい表現で時局を説明し、それを何度も繰り返すことで、大衆の過半数は納得した気になってしまうものだからだ。
 かれらは丸山のような批判精神を「エビデンスに乏しいからポリティカリー・コレクトではない」とする。秀才の彼らはエビデンスをネットで探し回って、おしゃべり人形のように多弁であるが、その言説はグーグルの人工知能が書いた文章のように魅力がない。
 『文明論之概略』は福沢諭吉ほとんど唯一の体系的文明論書である。明治維新のわずか8年後、民心の気風がまだまだ江戸時代を離れなかったとき、その闊達にして大胆な文章であらわされた自国文明に対する深い憂慮は、和魂だ、洋才だと騒ぐばかりの知識階層を驚嘆させた。

序章 古典からどう学ぶか

 上巻 p4-6
 いわゆる古典離れの背景には二つの要素があります。ひとつは古典が持つ「客観的な規準」、「確立された形式」と、それに対する日本人の「内発的なエネルギー」の無定形性という要素。いま一つは、新品・新型を絶えず追いかけていないと時代遅れになるという心理傾向。この二つはなにも「今どきの若いもの」に限られたことではありません。
 この読書会でそういう日本文化論を述べ立ててもキリがありませんが、簡単に私の独断を言えば、そもそもわが国の文化に規範とか形式性を与えたのは、古代では中国であり、近代では西欧だったという事情があげられます。
 つまり学問でも芸術でも客観的形式とか、典則という意味でのクラシックはもともと外国由来のものだったわけです。だからどうしても、そうした形式への反逆は、「外来」対「内発」という、本来の問題の次元とは別の次元の問題にすり替わりやすい。そうして、日本の内発性の探求は無定形(アモルフ)なエネルギーもしくは「構成」以前の情念の流れに行き着き、そこに「日本人」の本源的なものを見ようとします。
 形式への反逆は、いうまでもなく西欧ではロマン主義的思考の特徴ですが、日本では「三史五経のみちみちしきかた」(紫式部)への違和感の方が先行しているので、極端に言えば、日本では歴史的順序は古典主義からロマン主義へではなくて、むしろ「はじめにロマン主義ありき」ということになってしまいます。

 いや古典離れはそんな長い由来に根ざしているのではない、現にわれわれの時代はもっと東西の古典になじんだものだ、という異論が戦前・戦中派から出されることがあります。とくに旧制高校をなつかしがる人たちから出そうです。
 10年前にわたしはフランクフルトにあるゲーテ・ハウスに立ち寄ったことがあります。そこに訪問者の記帳簿があったのですが、わたしが驚いたのは日本人の名前が非常に多いだけでなく、立派な肩書の付いた名刺が残されていることでした。こういう人たちはさだめしこの記念館に立ち寄って、たとえ『ファウスト』でなくても『若きウェルテルの悩み』とか、エッケルマン『ゲーテとの対話』を読んで、友と熱っぽく語り合った思い出にしばし浸ったことでしょう。
 しかし、何々省何々局長や何々会社代表取締役という方々にとって、青春時代の古典の読書は単なる「ナツメロ」になっていないでしょうか。古典への親しみなるものが、多くは「俺も昔は読んだものだ」という一過性現象であるところに、旧制高校的「教養主義」のひ弱さがあるように思います。読書量の何パーセントが実際の精神活動のエネルギーになっているかという入力と出力の比率をとってみると、「今どきの若いもの」を貶してばかりいられないような気がします。

 第1講 幕末維新の知識人
 上巻 p33-5
 福沢諭吉は天保5年に生まれています。天保というのは江戸末期のなかでは珍しく15年も続いた年号ですから、天保生まれの著名人はなかなか多い。「天保の老人」という有名な言葉があります。
 天保の老人、つまり福沢と同世代にどういう人たちがいたか、思いつくままに挙げてみます。まず吉田松陰。福沢よりわずか四つ年上です。橋本左内は同年。坂本竜馬は一つ下。高杉晋作は五つ下、久坂玄瑞は六つ下。つまり安政の大獄や維新までの動乱の中で死んだ志士たちは福沢と同世代なのです。明治の元勲といわれる人も圧倒的に天保生まれです。大久保、木戸をはじめ、山形有朋、大隈重信伊藤博文井上馨松方正義黒田清隆、みんなそうです。西郷隆盛だけがちょっと年長です。
 坂本竜馬高杉晋作が福沢と同年あるいは年下というのはちょっとイメージしにくいのではないでしょうか。福沢の維新直後の書物がベストセラーとなり、しかも彼は明治34年まで生きているのですから、福沢というと明治の人で、幕末の志士たちとは時代が一段階ちがっているように思われています。
 一方、「天保の老人よ、去れ」と言った徳富蘇峰明治維新の直前に生まれており、その少し上に三宅雪嶺がいます。文学者でいうと、北村透谷、徳富蘆花明治元年田山花袋島崎藤村徳田秋声が明治4、5年に生まれています。なぜか自然主義派が多い。この人たちは幕末維新の大変動をほとんど知らない、はじめから「明治の御世」に生まれた世代です。(ちなみに夏目漱石は維新直前の生まれ。漱石が福沢に言及したことはまったくないということだが、『吾輩は猫である』などの厳しい時代批判には、福沢の本書を下敷きにしているらしいところがいくつもある。)
 この二つの世代の間に自由民権のイデオローグたちがいます。中江兆民は福沢より12歳下、馬場辰猪は15歳下、植木枝盛は22歳下です。今日から見ると植木枝盛と福沢は同じ時代のように見えますが、22歳下といったら、これはたいへんな違いです。福沢を読むときはこれらのことを心にとめておくといいと思います。