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丸山真男 『現代における人間と政治』(岩波全集第9巻)

 p33-7

 1930-40年代のドイツ社会と第2次大戦後のアメリカ社会を比べれば、似ていたと言う人よりは違っていたと言う人のほうがはるかに多いだろう。しかし1952年、マッカーシー赤狩りの嵐が吹き荒れ、社会全体のコンフォーミズム(体制同調の空気)に嫌気がさしてチャールズ・チャップリンはアメリカを去ったし、ほかならぬナチの世界から逃げてきたトーマス・マンも戦後ふたたびスイスに移った。その地でまもなく生涯を終えたマンの回想の一節は痛ましいものである。
 「私は78歳でもう一度生活の地盤を変えた。これはこの年齢では決してささいなことではない。これについて私は認めざるを得ない、ちょうど1933年に似て、この決断にはアメリカの政治的なものが関与していたことを。あんなにも恵まれた国、巨大な強国にのし上がった国の雰囲気にも、心を締め付け、憂慮をかきたてるような変化が来た。 
 忠誠と称するコンフォーミズムへの強制、良心に対するスパイ、不信、悪口を言い立てるための教育、政府にとって好ましくない学者に対する旅券交付の拒否・・・・異端者を経済的破滅につき落とすやり方―――アメリカではこれらがすべてが日常茶飯事になってしまった。・・・少なからぬ人々が自由の滅亡を恐れている。」

 ・・・けれども、マンの警告も、チャップリンの風刺も、当時のアメリカ市民の多数にはせいぜい「おどかし屋」の、もっと悪い場合には「アカの一味」の中傷としてひびいただろう。あのナチズムの支配でさえ、それが最後の狂気の一歩手前にくるまで、多数のドイツ人住民には昨日と今日の光景がそれほど変わって見えなかった。マッカーシー旋風の下にある繁栄時代のアメリカ市民にはなおさらである。
 「自由だと思っている」圧倒的多数の――したがって同調の自覚さえない同調者の――イメージの広く深いひろがりの中で、社会の中心を少しはずれた異端者の孤立感は大きくなるばかりだったに違いない。

 ・・・すでに100年以上も前に、トクヴィルは、民主社会においては、そこに生きる人々の平準化の進展が、一方での「国家権力の集中」と他方での「狭い個人主義の蔓延」という二重進行の形をとることを見通していた。いわく、平準化の進行した社会では、個人はそれまで人々が日常生活を送ってきた中間諸団体での居場所を失って、ダイナミックな経済社会に素裸状態で放り出されることになる。そのためパブリックな事柄に関与しようとする思いを失い、日常身辺の営利活動や娯楽に生活領域を局限するようになる、と。
 トクヴィルのこのあまりにも早熟な洞察に、当時よりはるかに「歴史を進めたはず」のわたしたちは、なさけないことに誰も反論できない。