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スタンダール 『赤と黒』(新潮文庫)

 ナポレオン没落の1814年から15年間ほど続いた、極端な保守反動期のパリが舞台。(第一部はジュリアン・ソレルがうわべだけのラテン語教養と、人を蹴落とす尊大さと、貴族社会への反抗心を磨いた、フランス南西部のブザンソン近郊が舞台。ここで生涯の恋人レーナル夫人との美しい恋物語が展開される。)

 当時も今も理系の最高学府であるエコール・ポリテクニークスタンダールが優等で卒業したのは、ちょうどナポレオンが政権をとったばかりのときだった。小さいときからロマン主義的傾向のあったスタンダールは英雄ナポレオンに酔いしれ、軍に志願してイタリア遠征に加わっている。17歳のときには美しいイタリアの風土と、自由で情熱的なイタリア女性にすっかりのぼせ上り、生涯つづくイタリア礼賛ができあがったとされている。だいぶ後、1812年にはナポレオンにしたがってモスクワにも行くが、有名なロシア軍の戦略的放火によるモスクワ大火に巻き込まれて命からがら逃げ帰った(訳者解説)。

 ジュリアン・ソレルは第二部になって、田舎のブザンソン近郊から陰謀渦巻く貴族やイエズス会修道士のサークルの中に秘書兼聖職者候補としてパリに送られる。ソレルはこんなスタンダールが作り上げた主人公だから、サークルのなかでおとなしくしているわけがない。新約・旧約聖書ラテン語で丸暗記するほどの記憶力と機敏な行動力で、主人ラ・モール侯爵に気に入られるだけでなく、その愛娘で生粋のパリ女であるラ・モール嬢の気まで引いてしまう。
 そのやりかたも、(スタンダール自身の著者解説によれば)「ラ・モール嬢からは、父のお気に入りの秘書の控えめな態度は、まるで彼女を軽蔑しているように見えた。ジュリアンの態度が<軽蔑を恐れる心>から生まれたものにすぎないとは、彼女にはわかるはずがなかった。だからこそ彼女は、極端な虚栄心から、ジュリアンの平静な心を乱そうと一心になってしまう」という念入りなものだった。田舎の製材商に生まれ、とりえと言えば美貌と記憶力と勇気だけ、金もなければ学問もない・・・・そうした平民が心に蓄える上流社会への憎悪は、小生意気な女一人を相手にする場合でも徹底したものだったのだ。

 ブザンソン近郊でのレーナル夫人との恋は、ジュリアンはいろいろと手管も使ったが、パリに来た後になって思い返せば、間違いなく真率なものだった。それに対してラ・モール嬢との恋は、命がそのつど伸びたり縮んだりするものだったが、それは「頭脳の恋」だった(著者解説)。

 『赤と黒』は、会話文も少ないわけではないが、ドラマの大きな動きが会話で語られることはほとんどない。重要な挿話はほとんど地の文で語られる。つまり、読者はページの背後に、「これを書いているスタンダール」を常に感じる。それほどに作者の影は濃い。そしてその作者はルソーに激しく影響されていることを読者は感じずにいられない。
 近代小説の最重要作の一つといわれるが、人を押しのけてでも前に進もうとするソレルをいまの読者は好むか、あるいは実子を孤児院に捨てるような「自然人」だったルソーへの心酔に鼻白むか。

前野ウルド浩太郎 『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)

 2017年5月に発行して以降、毎週増刷を続けているというベストセラー新書。経済誌・プレジデントの敏腕プロデューサーに「売れる本」をつくるための文章の書き方、章立ての工夫などをみっちり教えてもらったということで、読み手をどきどきさせる抜群の出来栄えになっている。

 著者はバッタ研究のポスドクとして、就職も論文執筆も先の見通しが立たないまま、2,3年任期の臨時職をやっと見つけ、はるばる西アフリカ・モーリタニアに来た。その地で、数年に一度は半径100キロ以上もの大群になって乾燥地帯の農作物を壊滅させるサバクトビバッタの生態を解明するためだ。

 本来の研究成果については、この新書ではほとんど触れられていない。エピローグ近くで、研究論文として近いうちに一冊まとめる予定であることを述べているが、この本の魅力はそういったカタイ話にあるのではない。目の前のトラブルにとにかく全力でぶつかっていく破天荒な行動の語り口がなんともいえず面白い。
 たとえば、著者の不十分な英語でアラビア語とフランス語の仲間に溶け込む抱腹絶倒の会話術が披露されるくだり。現地研究所長の信頼を得たことで、駐モーリタニア日本大使から晩餐に招かれるようになり、それが機縁で駐日モーリタニア大使と東京でバッタ問題を話し合うことになるくだり。
 ほかにもある。研究者としての先行きに不安な著者は、ふとしたことから京都大学の「白眉センター」研究者募集に応募することになる。そして、最終面接で当時の松本・京大総長から、「過酷な環境で生活し、研究を続けるのはほんとうに困難なことだと思います。私はひとりの人間としてあなたに感謝します」と目を見つめながら言われ、危うく泣きそうになるシーン。その結果、前出の敏腕プロデューサーがこれを喜んでくれ、「帰ってきたバッタ博士」と銘打った番外編の特集記事を自分の経済誌にあげて、学界に著者の名を知らしめてくれるのだった。

 エピローグで、モーリタニアに数億・数百億匹のバッタが突如大発生する。著者はここから「生ける砂漠の大悪魔」のデータを十分に採取する。そのあと大発生したバッタは現地研究所長指揮下の殺虫剤噴霧部隊によって大殺戮されていくのだが、バッタは殺虫剤でいくら殺されても、それは成虫を殺しただけなので、卵や幼虫を殺さなくては将来の大発生を防いだことにはならない。
 著者の次作となる研究論文は、サバクトビバッタを卵と幼虫のままで死滅させる方法について書かれるということだ。

 

養老孟司 『遺言』(新潮新書)2/2

 ヒトとハチは同じことをしていないか

 p126-7

 共有空間が成立するのはヒトの場合だけではない。アリ、ハチ、シロアリのような社会性昆虫も機能的な共有空間をつくる。ただしそれは概念的な共有空間ではないはずである。一定のやり方で次々に部分をつくって行ったら、いつの間にか全体ができあがってしまっている、というものだろう。スズメバチアシナガバチの巣の作り方が典型である。

 こういう空間は一定の手順をひたすら繰り返すことにより、いわばアルゴリズム的に成立する。ファーブルのように、こうしたいわば固定された機能を、かつては本能と呼んでいた。
 ヒトはコンピュータを作り出したが、それはあらためてヒトの「意識」にもあるアルゴリズム的なものの強さを思い起こさせる。無論やっているヒトに、そんなつもりはないだろう。彼らは本能よりはるかに高級なことをしていると考えているに違いない。
 でも、考えてみないといけない。コンピュータは固定した手続きだけで、延々と「高級な」なことを自動でやる。まもなくヒトは量子コンピュータというものを手に入れるらしいが、量子コンピュータの根本機能はいまのコンピュータとまったく違うものではない。計算速度が数ケタ上がるだけである。
 要するに量子コンピュータは、物理学と機械工学の学者が、「向上意識」という「本能」と境界領域がはっきりしないものに尻を叩かれて、計算の高速化に取り組んだ成果なのである。
 向上意識が本能よりも高級なのかどうかは、また別の問題である。一定の手順をひたすら繰り返すことにより、いわばアルゴリズム的に成立するのは、量子コンピュータスズメバチの巣もあまり変わりがない。スズメバチの巣はスズメバチにとっては快適空間であることは間違いなかろうが、量子コンピュータが作る居住空間が非常に快適なものかどうかは、私にはわからない。

 感覚を遮断することは「高級」な行為なのか

 p140-1

 都市で暮らすということは、身の回りに恒常的な環境をつくることである。マンションの中にいれば終日明るさは変化しない。風は吹かない。温度は同じである。都内の小学校の校庭はひたすら舗装される。子供に同じ平坦な、固い地面を与える。べつに、土からくる足の裏の感覚を無視することを教えているつもりはないのだろう。

 でも一歩引いて見てみればやっていることは明らかである。むき出しの自然から直接与えられる皮膚感覚を限定し、安全や便利や清潔といった「意味」を前面に出し、残ったあとのものを遮断してしまう。

 世界中で子供と若者は四六時中、スマホを見ている。スマホの中にあるのは情報である。情報とは、放置しておけばまったく変化しないものである。スマホの中にあるものは、見ている人の肉体のように諸行無常ではない。情報化社会は、もともとあった自然の世界に反抗して、諸行無常ではない世界を構築しつつある。子供が諸行無常を発見するのは、我々の世代よりだいぶ先のことである。

 コンピュータの世界はどこまでも発展する。そのうち自分で自分より優秀なコンピュータをつくるコンピュータが出てくる。そうなればだれも何も考える必要すらなくなる。そのとき、世界は永久に変わらないもので満ちている。千年前のあのデータ?、あれはそのまま残っていますよ。こんなに確実な、安心で安全な世界はないじゃないですか、という面白みのない世界である。

養老孟司 『遺言』(新潮新書)1/2

 意味のないものにはどういう意味があるか

 p36-7

 雑草とは何か。そんなものは植えた覚えがない草のことを、雑草という。植えなかった理由は、その人にとって意味がないからである。サラダにするわけでもないし、野菜炒めにするわけでもない。それなら引っこ抜いてしまえ、というわけだ。

 意味のあるものだけに取り囲まれていると、いつの間にか、意味のないものの存在が許せなくなってくる。その極端な例が2016年相模原市の障害者施設で起きた19人殺害事件だろう。障害があって動けない人たちの生存にどういう意味があるか、そう犯人は問うた。
 その裏には、①すべてのものには意味がなければならない、②その意味は「自分に分かるはずだ」という暗黙の、自分なりの了解がある。①まではその男の信仰として許される。しかし②は普通には「自分にはそういうものの存在意義はわかりません」でとどまるところを、自分が分からないことを「意味がない」と勝手に決めてしまう。その結論に問題がある。
 なぜそうなるかと言うと、その人たちはすべてのことに意味があるという世界をつくってしまい、その中で思春期以降を暮すようにしたからである。意味のあるものしか経験したことがない。そう言ってもいい。不健康で狭量な思想はそうした人の集団の中で育つ。喫煙が健康に意味がないということでナチ政権は国家的に禁煙運動を始めた。さらに精神障害者安楽死を積極的に進める国になった。

 山に行って虫でも見ていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解をするわけがない。何でこんな虫がいなきゃならないんだ。世界はそこでは無意味に満ち満ちている。 
 

福岡伸一 『新版 動的平衡』(小学館新書)3/3

 がん細胞とES細胞の共通点

 p164・170

 ES細胞は万能細胞と呼ばれている。シャーレの中で培養できる。そのES細胞は置かれたまわりの細胞と「コミュニケーション」をとりながら、何にでも――肝臓にでも腎臓にでも心臓にでも――なりうる態勢で、施術者の指示を待っている。だから多能性細胞ともよばれる。
 実は、ES細胞にそっくりの特徴を持つ細胞を、もうひとつ私たちはずっと昔から知っている。がん細胞である。ガン細胞はいったんは正常組織細胞として分化を果たして、自分の使命を全うしつつある細胞である。
 ところが、偶然が重なると、分化の過程を逆戻りし、未分化段階に戻ってしまうことがある。それでいて分裂と増殖を止めることがない。このような暴走細胞が身体のさまざまな場所に散らばり、他の細胞の秩序をかく乱するのが、とりもなおさずがんの正体である。
 自分の分際を見失って、しかし無限に増殖することはやめない細胞。この点において、がん細胞はES細胞と極めて似通っており、おそらくは表裏一体の関係にある。私たちがもし、がん細胞にふたたび正気を取り戻させ、人体組織の一部に分化することを思い出させることができたら、私たちはがんを制御することができるはずである。

 しかし、長年の研究を経ても、がん細胞にまわりの細胞と「コミュニケーション」を取らせることに、誰も成功していない。それは生体組織の分化を生体の外側から十全にコントロールするという、現在をはるかに超える科学と技術を必要とするからである。おそらく今後しばらくは、私たちはがん細胞を制御するのとほとんど同じ程度にしか、ES細胞やiPS細胞を制御できないだろう。

 生体組織分化を十全にコントロールするには、その技術に時間の関数が入っていることが欠かせない。生命というプロセスがあくまで時間の関数であり、それを逆戻りさせることは不可能だ、という意味である。
 さきにも書いたが時間の関数とは、「あるタイミングにおいて、部品Aと部品Bが出現し、A・B間でエネルギーと情報がやり取りされ、あるステージが作り出される。次の瞬間には、別の一群の部品C・D・Eが必要となり、手前のステージでの部品A・Bは不必要になるばかりか、そこにあってはならなくさえなる」ということである。
 イギリスの有名なクローン羊ドリーは順調に成長し、どこから見ても正常な羊に育ったが、突然原因不明の病で死亡した。羊の平均寿命のわずか半分だった。ドリーの受精から発生、誕生までの組織分化の時間には、羊の体内時計とタイミングがとれない人間的時計が一緒に入っていたに違いない。

福岡伸一 『新版 動的平衡』(小学館新書)2/3

 生命においては、全体は部分の総和ではない

 p145-6

 生命は細かく分解していくと確かに部品になる。遺伝子上に設計図がある二万数千種類のミクロな部品に。その部品(タンパク質)は今ではどれも試験管内で合成することができる。

 でも、それを機械のように組み合わせても、そこに生命は立ち上がらない。それはどこまで行ってもミックス・ジュースでしかない。ところが私たち生命はその部品を使って現にいま生きている。ミクロな部品が組み合わさって、動き、代謝し、生殖し、思考までする。
 だから、生命現象においては、機械とは違って、全体は部分の総和以上の何ものかである。私(福岡)はもちろん生気論者ではない。危ういオカルティズムに接近するつもりはさらさらない。私は、総和以上の何ものかは「時間」に由来すると考える。

 生物を物質のレベルからだけ考えると、生命もミクロなパーツから成るプラモデルに見えてしまうかもしれない。しかし生命はプラモデルと違って、パーツとパーツのあいだでエネルギーと情報がやり取りされている。そして、そのやり取りの効果が現われるために「時間」が必要なのだ。より正確に言えばタイミングが。

 あるタイミングにおいて、この部品とあの部品が出現し、それらの部品間でエネルギーと情報がやり取りされ、あるステージが作り出される。次の瞬間には、別の一群の部品が必要となり、前のステージでの部品は不必要になるばかりか、そこにあってはならなくさえなる。このような不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は誕生する。

 近代の生命学が陥ってしまった罠は、一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。その部品機能主義に囚われると、たとえば青い花が咲く植物には「青の遺伝子」があるということになってしまう。そうではないのだ。青い花を咲かせるという「効果」が生み出されるためには、数十、数百、いやそれ以上の部品遺伝子がかかわり、それらの部品と部品の相互作用がタイミングよく生じる必要があるということだ。きわめて複雑な特殊機能遺伝子がたくさんあるということではなく、比較的簡単な部品遺伝子が絶妙のタイミングで連続的に発現するということなのだ。
 数多くの部品遺伝子の連続発現のタイミングを絶妙に調整しなければならないからこそ、生命の一つの種の進化には数百万年もの時間がかかるのだ。部品遺伝子という物質自体は同じものがそろっている生命種でも、それらの連続発現のタイミングに一つ狂いがあれば、その生命種は容赦なく自然淘汰されてしまう。

 

福岡伸一 『新版 動的平衡』(小学館新書)1/3

 人は、たとえば70歳になったとき、10歳のときよりは1年が短くなったと思わないだろうか。小学生のとき私は「6年間とは何て長いものか」と3、4年生のときも、小学校を卒業した後も感じたが、70歳になったいま、これからの6年くらいは数えるうちに過ぎることを体で感じることができる。
 著者は、この年齢による時間の感じ方を、それはタンパク質の新陳代謝速度に関連するものだと、とても分かりやすく教えてくれる。

 タンパク質の新陳代謝速度が体内時計の実体

 p46-7 

 私たちの体内時計の仕組みは、タンパク質の新陳代謝速度に起因する。生物の体内時計の正確な分子メカニズムはいまだ完全には解明されていない。しかし、細胞分裂のタイミングや分化プログラムなどの時間経過は、すべてタンパク質の分解と合成のサイクルによってコントロールされていることが分かっている。つまりタンパク質の新陳代謝速度が体内時計の秒針なのである。

 もう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなるということである。つまり体内時計は徐々にゆっくり回ることになる。
 しかし、私たちはずっと同じように生き続けている。そして私たちの内発的な感覚はきわめて主観的なものであるために、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっているのに気がつかない。
 だから完全に外界から遮断され、自己の体内時計だけで「一年」を計ったとすれば、「もうそろそろ一年が経ったなあ」と思えるに足るほど体内時計が回転するには、より長い物理的時間がかかることになる。子供時代の時計よりも老人の時計の方がゆっくりとしか回らないのだから、そういうことになる。

 さて、ここから先がさらに重要なポイントである。タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間はいつも同じスピードで過ぎていく。

 だから? だからこそ、自分ではまだ一年なんて経っているとは全然思えない、自分としては半年くらいが経過したかなーと思っている。しかしそのときは、すでに実際の一年が過ぎ去ってしまっているのだ。そして私たちは愕然とすることになるのである。
 先日私は市役所からの通知で「あなたは来月から医療保険の自己負担が3割から2割になりますよ」と教えられて、そのことを実感したのだった。