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ロバート・ゴダード 『千尋の闇』(創元社推理文庫)

 2週間前の本ブログでぼくは本作はすでに紹介済みだとしていた。ところがこれは勘違いだった。

 本作はイギリス中上流階級の3世代にわたる陰謀と裏切りの複雑きわまりないミステリー。20世紀初頭に南アフリカで起きた重婚詐欺が数年のちの内務大臣(A)の更迭につながり、馘首された内務大臣はポルトガル領マデイラに隠棲を余儀なくされてその地で回想録を書く。
 千尋の闇の底を記したその回想録には、首相アスキスを追い落とそうとするロイド・ジョージや、事件と微妙な距離をおこうとする曲者のウィンストン・チャーチルが実名で登場して、いかにも英国政治家らしい含みたっぷりのせりふを吐く。しかもこの政治劇には当時の急進的婦人参政権運動の女たちが一枚かんでいる。被害者意識を先鋭化させたこの女たちが権力志向のロイド・ジョージと策謀をめぐらせて内務大臣を奈落の底につき落とす場面は、日本の右翼政治家どもに見習ってほしいほどの天晴れさだ。

 重婚詐欺からはじまった陰謀と裏切りは内務大臣の墜落だけでは終わらない。内務大臣自身、自分の失脚の理由が分からなかったのだが、やがてそれは作中で「そういえばあの男は・・・」という伏線が張られていた男に焦点が絞られていく。この男(B)は、もとは婦人参政権運動家であったこの小説のヒロインを手に入れ、参政権運動と密約していたロイド・ジョージの知遇も得て、兵器商人として叙爵までされるのだが、その男が内務大臣の重婚を「証明」する書類を偽造していたのだ。

 この偽造された結婚証明書を落魄の内務大臣に見せた人物(C)こそ、小説の中で最も「悪」の影の濃い人間だった。しかし彼の「悪」の影がいかに濃いものであろうと、その影は南アフリカボーア戦争でイギリスがオランダ人社会に対して行った残虐行為の反映である。(B)はボーア戦争のどさくさに紛れ、友人(A)の名をかたってオランダ人の女に結婚詐欺を働き、三日後にはその女性を捨てたのだった。女性は妊娠してしまっていたが父親が逃げてしまったから、子供は私生児として生まれるほかはなかった。「悪」の影の濃い人間に成長するのは仕方なかった。

 因果が巡りめぐって、(C)は(B)が偽造した(A)の結婚証明書を手に入れる。(A)は(B)を追い詰め、(B)もかつての(A)同様すべてをなくす。イギリス人にひどいことをされて生まれた私生児(C)の復讐はこうして完成する、のだが・・・。

 だが、以上はこの小説の複雑なプロットの何分の一かを書いただけにすぎない。上のことは小説の語り手「わたし」の祖父母時代の話であって、「わたし」の現実の身のまわりでも祖父母時代に輪をかけたようなことが次々と進行して読者をハラハラさせる。 

 『千尋の闇』は、『リオノーラの肖像』をヒットさせたロバート・ゴダードの作家第一作だということだが、ゴダードに詳しい京大教授・若島正氏が解説に書いているように、「過去の探索を主軸にする複雑きわまりないプロットを読者に提供するのに、ゴダードはまことに達者なストーリーテリングの才能を発揮している。」日本のミステリー小説にこのようなスケールの作品がなぜ出ないのか、「想像力」に関する国民性に彼我の差を思ってしまう。ことは文学に限らない。

 

 

ウィングフィールド 『フロスト始末』 創元推理文庫

 6作品、9巻にわたって楽しませてくれたウィングフィールドの遺作である。上下巻あわせて約900ページ。これまでの作品と同じように、この『フロスト始末』 にも数々の変態的な犯罪が、読者がその場を目撃しているかのような迫真の描写力で描かれている。そしてそれを5ページに一度は披露してくれる下ネタ駄洒落が絶妙にコーティングしていて、ただの猟奇殺人警察小説とは桁が違う味わいを作り出している。

 最後の作品である今回は、そうした従来からの面白さに、警部自身がスキナーという新任の権力志向主任警部の罠にかかって、デントン署を去らざるをえない状況に追い込まれるというエピソードが加わっている。この人事異動には読者おなじみのケツの穴の小さいマレット署長がもちろん一枚かんでいる。

 ガタが来たきた身体にムチ打ち、直感と経験だけの乏しい知恵を無理やり絞り、わずかな能無し部下を率いながら睡眠時間を削って捜査にあたるフロストは、相次いで発生した3件の少女誘拐・暴行・殺人事件や荒稼ぎ安売りスーパー脅迫事件に立ち向かいながら、署内の人事陰謀をかいくぐれるのか?

 小説後半で、犯人逮捕の功を独り占めしようとするスキナー主任警部は、フロストや部下警官が止めるのも聞かずに、犯人と接触しようとして、銃弾に倒されてしまう。そのときのフロストの本音のつぶやきがいい。ぼくは警察にはいなかったが、だれでもそうだろうが、正直いって、死んでほしいと思ったやつとは何人もつきあった。
 「あんたのことは、底の底から、いけ好かない野郎だと思ってたよ。死んでほしいと思ってたわけじゃないけど・・・・・、でも、こんなことになって気の毒だとは、どうしても思えなくてね、悪いね」

 

ロバート・ゴダード 『蒼穹のかなたへ』 文春文庫

 これまで僕が読んだロバート・ゴダードは、デュ・モーリアレベッカ』をさらに不気味にしたような超傑作『リオノーラの肖像』、著名な経済名士家系を翻弄する詐欺師の天才ぶりに読者が唖然としてしまう『欺きの家』、実名で動き回るロイド・ジョージチャーチルが、光の届かないイギリス政界の闇の深さを浮かび上がらせる『千尋の闇』の3作。どれもが、出版社の宣伝文句もたまには嘘をつかないことがある、もしくは、ゴダードの力量は宣伝屋ごときが2、3行のコピーでは伝えられないことを実証していた。

 この『蒼穹のかなたへ』上下巻もまた、読者を数日のあいだ楽しませてくれるものだった。上下2巻、700ページの長編。主要人物だけで20人以上。どれひとりとしてぞんざいな扱われ方をしていない。メインらしく思われるストーリーが、途中で二転、三転するように読者は惑わされ、下巻の半分までは何が事件の全貌なのか、読んでいる途中で相当考えないといけない。
 そしてそして・・・、たとえ上巻の後半から20ページごとに20回考えたとしても、最後にはそれは全部外れていることを知らされる。作者の頭脳はつねに読者の推理の裏をかく。「犯人」らしき人はしだいにわかってくるが、なぜ彼がそうしなければならないのかを推理できない。読者は作者のはかりごとにますます引きずられていく。

 佐々木徹という京大英文学助教授だった人が、やや興奮の気を入れて「解説」を書いている。「もしいまあなたが『蒼穹のかなたへ』というこの小説は果たして面白いのだろうかと迷いながら、本屋さんの店頭でこの「解説」をのぞいておられるのなら、どうぞ心配の必要はまったくありません、すぐにレジにこの本を持って行ってお買いなさい。もしいま小説を読み終わってこの「解説」を読んでおられるのなら、あなたは私の言ったことに強くうなずいておられることでしょう。プロットが起伏に富んでおり、意外な展開に満ちていて、語り方に工夫が凝らされ、しかも人物がよく描けていて、性格造型に無理がない、とくれば娯楽小説としてこれ以上何が望めましょう。」

村上春樹 『騎士団長殺し』(新潮社)

 村上春樹は、展開の卓抜さでも登場人物の語り口の意味の深さでも、他の作家に後を追おうという気をなくさせる力量を持つ。『1Q84』以来ちょうど7年ぶりの長編だが、現実世界の座標をほんの少しだけずらしたメタファーの時空間を舞台にしているのは、『1Q84』とかわらない。

 ハラハラさせるサスペンス小説としての面は『1Q84』よりも少ないが、描かれる世界は同じように謎に満ちている。だが、配役たちにふりかかる超日常的事件を描写する単語がとてもやさしく明晰なので、読者はこうした超日常的事件は<世界の境目>にはときどき起こりうるのだと同意させられて、ページを進めてしまう。

 上下巻で1000ページを超える大作、そこに幾筋もの流れが重なり合っていて、最後まで簡単には合流しない。このような作品の梗概を書くことは、わたしの手に余る。そんな興ざめなことをするより、二人の主役がこの劇全体の流れについて対話するシーンが下巻の後半にあるので、そこを書き抜く。登場人物のダイアローグなのでネタバレを最小限にできるメリットもある。

 

 私(小説の語り手)は床に屈みこんで、画家・雨田具彦の『騎士団長殺し』をくるんでいた布をはがし、その絵を壁にかけた。そして(「私」が講師をしている絵画学校の生徒)秋川まりえをスツールに座らせ、その絵をまっすぐ正面から見せた。
 「この絵は前に見たことがあるね?」
 まりえは小さく肯いた。
 「この絵のタイトルは『騎士団長殺し』っていうんだ。少なくとも包みの名札にはそう書かれていた。雨田具彦さんが描いた絵で、いつ描かれたのかはわからないが、完成度はきわめて高い。構図も素晴らしいし、技法も完璧だ。とりわけ、一人ひとりの人物の描き方がリアルで、強い説得力を持っている」

 私はそこで少し間をおいた。私の言ったことが十三歳のまりえの意識に落ち着くのを待った。それから続けた。

 「でもこの絵はこれまでずっと、この家の屋根裏に隠されていた。人目につかないように紙にくるまれたまま、おそらくは長い年月そこで埃をかぶっていた。でも僕がたまたま見つけて、運び下ろしてここにもってきた。作者以外にこの絵を見たことがあるのは、たぶん僕と君だけだろう。君の叔母さんも最初ここに来たときにこの絵を見たはずだが、なぜかまったく興味を惹かれなかったようだ。雨田具彦がどうしてこの絵を屋根裏に隠していたのか、その理由はわからない。こんなに見事な絵なのに、彼の作品のなかでも傑作の部類に属する作品なのに、なぜわざわざ人目に触れないようにしておいたのだろう?」

 まりえは何も言わず、スツールに腰かけて、『騎士団長殺し』を真剣な目でただじっと見つめていた。

 私は言った。「そして僕がこの絵を発見してから、それが何かの合図であったかのように、いろんなことが次々に起こり始めた。いろんな不思議なことが。まず免色(めんしき)さんという人物が僕に積極的に接近してきた。谷の向こう側の、真っ白な大きな家に住む免色さんだ。とてもとても興味深い人だ。このあいだ君は叔母さんといっしょに免色さんの家に行ったよね」
 まりえは小さく肯いた。
 ・・・「それから真夜中に鈴の音が聞こえてくるようになって、それを辿っていくと、雑木林の祠の裏にあるあの不思議な穴に行き着いた。というか、その鈴の音は積み重ねられたいくつもの大きな石の下から聞こえてくるようだった。その石を手でどかせることはとてもできない。
 「そこで免色さんが業者を呼び、重機を使って石をどかせた。どうして免色さんがわざわざそんな面倒なことをしてくれたのか、僕にはよく分からなかったし、今でもわからない。でもとにかく免色さんはそれだけの手間とお金をかけて、石塚をそっくりどかせた。

 「そうするとあの穴が現われた。直径二メートル近くの円形の穴だ。石を積んでとても緻密につくられた丸い石室だ。誰が何のためにそんなものを作ったのか、それは謎だ。君はあの辺りの、誰も知らない小道をときどき散歩していたそうだから、その穴が暴かれたことを知っていた、そうだね?」
 まりえは肯いた。
 「その穴を開くと、小さな古代の鈴みたいなものが出てきた。この絵に描かれている騎士団長が持っている鈴だよ。そのときの僕には見えなかったが、その穴には騎士団長もいて、かれが真夜中に鈴をならしていたことが後でわかった。そのことを穴を暴いた翌日に僕の家に来た騎士団長自身から聞いた」

 私はその絵の前に行って、そこに描かれた騎士団長の姿を指さした。まりえはその姿をじっと見ていた。しかし表情に変化はなかった。

 「騎士団長はこれと同じ顔をして、同じ服装をしている。ただし体長は六十センチほどしかない。とてもコンパクトなんだ。そしてちょっと風変わりなしゃべり方をする。でも彼の姿はどうやら、僕以外の人には見えないらしい。彼は自分のことをイデアだという。そして自分はあの穴の中に閉じ込められていたんだと言った。つまり僕と免色さんが彼を、穴の中から解放したわけだ。君はイデアというのが何か知っているかな?」

 彼女は首を振った。

 「イデアというのは、要するに観念のことなんだ。でもすべての観念がイデアというわけじゃない。たとえば愛そのものはイデアではないかもしれない。しかし愛を成り立たせているものは間違いなくイデアだ。でもそんな話を始めるときりがなくなる。僕にもよく分からない。

 しかしとにかくイデアは観念であり、観念は姿かたちを持たない。それでは人の目には見えないから、そのイデアはこの絵の中の騎士団長の姿をとりあえずとって、僕の前に現われたんだよ。

 ・・・・・「この絵からは、ほかにもいろんな人物が現われ出てきた。画面の左下に髭もじゃの変な顔をした男の姿があるだろう?僕は仮に<顔なが>と呼んでるんだけど、彼もやはり画面から抜け出して、年老いた雨田具彦の入院先に現われた。僕はその病院で、雨田具彦がなぜ『騎士団長殺し』を描き、しかも自宅の屋根裏に隠したのかを訊ねようとしたんだ。

 しかし、それを知るにはどうしても意識の地の底を通っていくしか方法はないようだった。
 <顔なが>は僕を雨田具彦の病室から、地底の国に導いてくれた。地底の国では、やはりこの絵の中に描かれている若いきれいな女性ドン・アンナに出会った。ドン・アンナは地底の国から脱出するための横穴を教えてくれた。もし彼女に会わなかったら、僕はそのまま地底の国に閉じ込められていたかもしれない。

 そしてひょっとしたら、ドン・アンナは雨田具彦さんが若くしてウィーンに留学していたときの恋人だったかもしれない。彼女は七十年近く前に、ウィーンに侵攻してきたナチス政治犯として処刑された」。(p440-3)・・・・・・。

 この小説を成立させているのが村上春樹の中にある「イデアとしての物語」であることだけはよく理解できる。しかし僕たちの愛が成就した、あるいは別離に終わったあとで、その愛の中にあったさまざまな要素を足し合わせても、イデアとしての愛には決してならないように、この小説の中の様々なセリフや登場人物を綜合しても、作者の中にあったイデアを復元することには決してならないだろう。

福岡伸一 『福岡伸一、西田哲学を読む』(明石書房)

 福岡伸一が、自身の「動的平衡」論をメインモチーフにして、池田善昭という西田幾多郎研究者と「生命とは何か」を語り合った対談本。20歳以上も年長である池田氏に敬意を表して、福岡が池田氏に西田哲学の生命論を教えてもらい、そこから動的平衡論が西田哲学に通底していることを学んで、今後の研究を力づけてもらうという作り方の本になっている。

p171

 福岡 「絶対現在」という述語は、西田哲学の分かりにくい表現の最たるものの一つですが、私はそれを「移ろいゆく動的平衡が一回限り作っている一状態(細胞内状態の一瞬の「いま」)」であると解釈したいと思います。
 つまり、動的平衡というのは、絶え間なく移りゆきながら、絶えず自分を更新しているといいますか、合成と分解を繰り返しながらエントロピー増大の法則に対抗している仕組みであるわけなんですが、その細胞内状態というのは、絶えず移り変わっているわけですので、その瞬間を見ればそれは一回限りの平衡状態なわけです。

p197

 福岡 何がすべての生命に共通な現象かと問われると、バクテリアから植物、高等哺乳類を問わず、全生物は細胞膜の内側でATP(アデノシン3リン酸)を分断し、燃え殻のADP(アデノシン2リン酸)を細胞膜の外側に排出しています。すると細胞膜の外側ではそのADPにたちまちリンが一つ加わり、ATPが合成されてふたたび細胞膜の内側に供給され、・・・・・・同じ反応がその細胞や組織が死ぬまで続けられます。

 池田 すなわち、生命は容赦なくふりかかるエントロピー増大の法則――たとえば、生命体を構成している高分子は分断され、タンパク質は損傷を受けつつ変成するわけですが、そうした乱雑さの増大する流れ――に抗して、なおも秩序を保持し維持し続ける耐久性とそれを可能にする構造を持っているんですね。
 僕はこれらのことを福岡さんの生命科学から教わったんですが、その具体的な生命の姿は、生命体を構成する細胞の内部にではなく、細胞の膜上にこそ見ることができるというのは驚くべきことです。

 福岡 ええ。いわゆる「あいだ」にいのちがあるということですね。

 池田 生命の営みとは、生命体の「内界」と環境である「外界」を区切るその両者の「あいだ」にある。すなわち、両者を区切る細胞膜の上で、互いに相反する合成作用と分解作用が同時に行われているということですね。

 福岡 そもそも生命は、何もしなければ、エントロピーがどんどん増加して、タンパク質などの超高分子ポリマーは見る間に低分子ポリマーに分解され、すべてが平準化した何の起伏もない世界に戻って行ってしまいますからね。
 でも、エントロピー増大の法則にまったく反することは生命にもできないわけです。だから生命が何をしているかというと、膜の内側であえて自分を分断することでエネルギーを放出し、膜の外側で再生した合成物をとりいれて自分を再び活性化している。つまり膜上の合成物の再活性化の瞬間だけ、エントロピー増大の法則を追い越すことで時間をかせぎ、生命の宿命を「先回り」しているといったらいいでしょうか。
 あえて自分を壊して再びつくるのを繰り返すことで、生命が死に向かってどんどん坂を下っていくのを、その再活性化の瞬間瞬間にだけ少しずつ登り返しながら、でも全体としては、ずるずるとその坂を下っていく、というのが生命だと思います。

 p323 生命の有限性の理由

 福岡 ヒトを含む多くの真核細胞では、ゲノムDNAは両側に断端を有する直線構造をとっています。この断端はテロメアと呼ばれます。DNAが複製されるとき、二重らせん構造がほどかれ、一本鎖となったDNAは、その端に相補的に結合するプライマーという短いRNAがきっかけとなって複製が開始される。これがそれぞれの一本鎖に対して起きるので、ゲノムDNAは全体として倍加コピーされ、それぞれは細胞分裂によって生じた新しい娘細胞に分配されます。
 複製が完了すると、複製の呼び水として使用されたプライマーは取り外され分解されます。するとその部分に位置していた一本鎖DNAの断端が露出することになる。二重らせん構造をとらない、断端の一本鎖DNAは不安定な構造として、すみやかに分解されてしまう。その結果、テロメアに位置する断端のわずかな部分のDNAが失われることになりますが、この部分には、通常、重要な遺伝情報は書かれていないので、多少の消失があっても問題はありません。

 しかし複製がくり返されると、ゲノムDNAが両端から少しずつ短くなっていくことになります。短縮が遺伝情報に拘わらない無意味な配列で起こっているうちはいいとしても、短縮がくり返されるとやがては重要部分に達し、それを損なうことになります。これがテロメアの逐次短縮と呼ばれる現象で、細胞の分裂回数に限界があることや、細胞の寿命の有限性の起源と考えられています。

 

夏目漱石 『道草』(筑摩書房)

 未完に終わった遺作『明暗』の前に書かれた自伝的要素の濃い作品。亡くなる2年ほど前のもの。養子に出された自分の生い立ちや身の回りの人々の欲望の世界を、細かい写実画のように描いている。漱石がときどき強い筆先で批判した自然主義派の作風をこの時だけは借用でもしたかのようだ。漱石が家庭人・夏目金之助としてはどのように暮らしていたかを知るのには格好の本である。
 炯眼の自然主義作家である正宗白鳥は『道草』を漱石作品の注釈書として、いろいろな作品の生まれた源をここにたどることができると言っているらしい。その意味で、全作品中最も大切な小説だとしてしているということだ(巻末解説・吉田精一)。

 もちろん主人公の健三は漱石自身を正確に写した人物だが、その自画像の筆先はあくまで厳しい。その筆遣いで輪郭を与えられる小ずるい養父母、世の中の落ちこぼれに近い兄や姉夫婦、江戸の昔の地位を鼻にかけながら、徳義心にはまるで乏しい妻の父などは、哀れで滑稽で、また憎々しい。
 これらの人々がうごめきまわる中心にあるのは、もちろんカネである。義理も人情も、学問さえ、カネがなかったらまともなものはできない。経済をはじめ生活一般の世情に疎かった漱石は、国から生活に困らない程度に給付金を貰ってロンドンに留学したが、そのほとんどを書籍購入に使ってしまった。ロンドンで東大後輩の金持ち知人から多額の借金までしているのだが、帰国してから返済を督促され、「ああ返さねばならないのだった」と本作中で慨嘆するような人だった。

 健三は偏屈で気むずかしい、実用向きでない男で、妻との家庭生活を楽しむことさえまるで知らず、大学での仕事に没頭するしか能がない。これまでの漱石の小説に何度も登場した、『それから』の代助や『門』の宗助によく似た人間である。
 彼の西洋仕込みの学問と教養は大したものだが、独立した自分の存在を主張しようとする細君にはすぐ「女のくせに」と不快を感じ、妻に自己の隷属物以上の価値を認めない。妻はまた妻で、「女房をもっと大事にしてほしい」と夫から愛されることを念願し、それでいて夫の意見よりは自分の実家の意見にいつも重きをおいている女房である。
 
 p223-4に描かれるこの夫婦の日常はまことにもの悲しい。

 だから健三の心は紙くずを丸めたように、いつもしゃくしゃした。ときによると癇癪の電流をなにかの機会に応じて外に漏らさなければ、苦しくていたたまれなくなった。そのとき彼は子供が母にせびって買ってもらった花の鉢などを、縁側から下に蹴飛ばしてみたりした。素焼きの鉢が彼の思い通りにがらがらと割れるのは彼の多少の満足になったが、・・・・・何も知らないわが子の慰みを無慈悲に破壊したのは彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。しかし子供の前にわが非を自白することは敢えてし得なかった。

 また、常でさえありがたくない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声を出して取次の下女を叱った。その声は玄関に立っている勧誘員の耳に明らかに届いた。彼はあとで自分の態度を恥じた。しかし、下女にそのことを詫びはしなかった。子供の鉢を蹴飛ばしたときと同じように、「責任は俺をこれだけイラつかせるまわりの世の中にあるんだ」と弁解を心の底で読み上げるだけであった。

 細君の方では、家庭と切り離されたこの孤独な人にいつまでも構う気色を見せなかった。夫が自分の考えで座敷牢に入っているのだから仕方がないくらいに考えて、まるで取り合わずにいた。

夏目漱石 『行人』(角川 漱石全集10)

 小説の体裁をとりながら「個人」と「世界」についての漱石の哲学をストレートに著した作品。100年以上前の朝日新聞に連載したものだが、大半の朝日読者にとっては不人気だっただろう。いまでも文庫本では、漱石の作品としては格段に重版の数が少ないのではないだろうか。「神」という文字をそのままの意味で――揶揄や皮肉でなく――使っている回数はこの『行人』が最多であると思う。

 「自分」が物語の語り手で名前は二郎。兄の一郎とともに中流ブルジョア家庭に育った。「自分」は大学を出て、都内の小さな会社で食い扶持だけは稼いでいるごくごく普通のインテリ。まだ両親・兄夫婦の家に住まわせてもらっている。一方、兄は大学の人文系の助教授か何か。物事を考え込むたちのきわめて神経質な人間である。

 小説の後半になって、兄は哲学上の難問について悩み切っていたのだったことが明らかになる。兄を旅行に誘い出してくれ、旅先から様子を知らせてくれた数少ない友人の長い手紙によって、そのことが明らかにされる。このあたりの小説作法は『こころ』とよく似ている。

 「兄さんは、世界には人間の意思以外の偉大な意思が働いているかどうかを、まじめに悩んでいる。兄さんは生真面目すぎるほど生真面目な人だから、ただそのことゆえに、書物を読んでも、理屈を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中なにをしても、そこに安住できないのだ」と友人は手紙で書いてくる。

「その人間の意思以外の意思が働いている可能性があるからこそ、兄さんは社会に立った場合のみならず、家庭にあっても一様に孤独で、痛ましい思いを持っている。人の性の何たるかを深く考えようとしない父も母も真実をごまかして生きる人であり、ことに妻はそうである。始終何かに対して怒っている兄さんを見ながら、妻は冷たいレディーの視線を向けるだけである。一度ぶったことがあるが、そのときも妻は兄さんを見下ろすような態度を変えなかったそうだ・・・・・・・」
 こうした兄・一郎の神経症はひどい胃潰瘍に悩む漱石神経症そのままだっただろう。実際『行人』執筆中に胃潰瘍を再び悪化させ、半年ほど連載を中断している。

 漱石の <世界には人間の意思以外の偉大な意思が働いている> という叙述は最晩年の有名な<則天去私>につながっていく考え方だろうが、これを漱石の宗教観ととるかどうかは難しいところである。なぜなら、仮に「偉大な意思が働いている」ことを認めても、その意思が私たちに「興味」を持っているかどうかは別問題だからだ。偉大な天が私たちに興味を持っていなかったら、<則天去私>はニヒリズムにかなり近づいてしまう。

 小説ははじめ一郎の夫婦仲のよくないところから始まる。そのうちに、なにかとのんきな「自分」のほうが兄嫁・直と気軽そうに日常の会話を欠かさないことから、万事に潔癖症な兄が妻と二郎との仲を疑うようになる。ある日などは、二郎に対して、「嫁を誘ってどこかに出かけて彼女の貞操を試してみてくれ」と無理を言う。弟との関係を疑いながら、ほかに男がいることも疑い、そのあたりを探って来いという、カマをかけたような、弟の忠誠心を試すような、兄の人間性の所在を疑うような難題である。だから小説としては、かなりページが進むまで鬱陶しい兄弟間三角関係のような話になるかと見え、漱石がどう落としてゆくか展開が見えてこない。

 おまけに、弟の「自分」は明らかに兄嫁・直に好意を抱いている。p211に <自分は雨だれの音の中にいつまでも嫂の幻影を描いた。濃い眉と濃い瞳、それが目に浮かぶと、青白い額や頬は、磁石に吸い付けられる鉄片の速度ですぐその周囲に反映した>という「自分」の心理描写があるが、この描写は『行人』の7、8年前に書かれた『一夜』という短編に出てきた、ある男と美しい女が旅館の一室で交わした思わせぶりな会話そのままである。それは、
ある男 <あのほととぎすの声は胸がすくようだが、惚れたら胸はつかえるだろう。思う人には逢わぬがましだろう>   美しい女 <しかし鉄片が磁石に逢うて、きりきり舞うたら?鉄片と磁石は逢わぬわけにはいきますまい>
という情のこまやかな会話だった。私は昔この箇所を読んだとき、後年までずっと心の裏に跡を曳く女性があったとされる漱石の女性観を見たことを確信した。

 ・・・しかし、『行人』中の「自分」のぼんやりとした恋心は、じつは漱石がこの「哲学的」小説を少しでも面白く読ませるための仕掛けにすぎなかった。そのことが第四章「塵労」(煩悩の意)になってはじめてわかる。兄の友人が唐突に、兄の哲学懊悩の底浅い実体を上述の長い手紙で「自分」に説明してくるのである。読者はな~んだと思ってしまう。物語構成上の大きな不手際がこの小説にはある。