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ゲーテ 「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」 2

 「混濁した世界の中から明澄な意識を積み上げるべく修行する」主人公ヴィルヘルムは、作中の「蓮っ葉女」に哂われているように、「どんな人間にしようかと会議をしている神々の議論でつくられた」ような面白みのない男である。未熟な苦瓜のように固く、生身の体を持っているとは思えない、文章でのみ作られた人間である。時代が五十年も下がると、このような人物を作品に登場させる作家は誰もいなくなる。
 とめどもないおしゃべり。陳腐極まりない愛の賛美と、その三ページ後の結婚生活の破綻の、説明のない両立。小説としての起伏の無視。作者目線の地の文による抽象的感情描写の退屈さ。「彼の話はまじめで楽しくさわやかであった。自分ではつとめて隠そうとしていたが、しばしば繊細な感情が感じられた。意に反してそれが表に出ると、不愉快そうな様子を示した」(第三巻p80)などは、当時でも普通の作家は会話体で書いたのではないか。
 最後近くでヴィルヘルムに「修了証書」が贈られるのを見て魂消てしまった。「教養小説」なのだから「よくここまで修行しました」ということなのだろうが、この童話のような構成がまだ笑われない時代だったのだ。貴族知識人は何でも「教える」ことができ、読者の魂を「高める」ことができると信じられたのだ。事実、この作品は大喝采をもらったのだから。
 有名な「芸術は長く、人生は短い。判断は難く、機会は束の間である。」はこの「修了証書」にでてくる。
 ゲーテは果たして小説家だったのか。「魂」への信頼。魂と肉体との、読者が恥ずかしくなるような二元論。ゲーテの時代、神はすでにかなり重態だったはずである。ゲーテは作家の前に公国の宰相だったのであり、小娘にロマンチックな恋をしたこともある、要するに何をしても許されるブランド教養人だったのだ。私には、源氏物語が、千年前に書かれたことだけが(法隆寺が貴いように)貴い、ただの好色男の話じゃないかと思えても誰にも相手にしてもらえないのと、事情は少し似ている。(ブランドに弱い私は源氏も必死にガマンしながら最後まで読みきった。)
 五年前の、仕事をしているときだったら、途中で抛り出していただろう。舞台装置の乏しい京劇のような結末の読める脚本。小林秀雄シェイクスピアゲーテが文学論で喧嘩する場面は想像できないと書いていたが、お上品な講談話のような「修行時代」をシェイクスピアに読ませれば、「いくらなんでもゲーテさん、あなたは貴族的すぎる、宿命の話がすこしも宿命的でなくただの“できすぎ話”になっている」と云いやしないか。シェイクスピアの登場人物のおしゃべりは現代人も大笑いさせるが、ゲーテの登場人物のおしゃべりは坊主と倫理先生の長話である。