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ウィリアム・ジェイムズ 「宗教的経験の諸相」 4

 p151
 優れた行為というものは善い意図、卓越した方法、ふさわしい相手の三条件が相互に適合していなければならない。だから聖者的な行為は、すべての人々が聖徒であるような環境のなかにあってこそ完全な行為でありえようが、相手が鰐や蛇のような人間では感嘆できる行為とはならない。闇の力どもはそれらの徳を計画的に利用するだろう。慈善組織の、施し物を与えるというだけの行為が失敗に終わるゆえんである。
 p152
 けれども、この世の中がそういう喧嘩腰の方法だけで営まれるとしたら、熱情でなく頑固な合理性だけで人間を扱っていたら、将来は今よりも無限に住みにくい場所になってしまうだろう。いつか来るだろうという楽しい見込みが私たちの想像から奪われてしまうだろう。
 この観点から、ある聖徒たちに見られる過剰な慈愛こそ真に創造的な社会的力であることを認めざるをえない。鰐や蛇のような人間でも到底救われないと決めてしまう権利はわたしたちにはない。人格というものの複雑さ、鬱積している情火、性格という多面体の裏面、潜在意識界の資源などはわたしたちには分からないのである。
 昔パウロは、どの魂も可能的に神聖であるという観念を我々の先祖に教えなじませた。今日これはあらゆる人道的な慣習や社会福祉制度に現れており、残虐な刑罰に対する嫌悪の増大となっても現れている。聖徒たちが示したあの人間の価値にたいする過信がなかったら、残る私たちの精神はいつまでも沈滞したままであろう。
 p163
 ある人が「一本の草花でも投げ捨てるように生命を投げ捨てる」ことができるとしたら、わたしたちはその人間を、生まれながらに最も深い意味において、わたしたちより優っているものと考える。彼の十字架の愚は、知性には不可解なものであっても、宇宙の秘密な要求に応える重大な意味を持っていたのである。この真理のためにこそ禁欲主義は忠実に戦ってきた。
 p195
 目ざめているときの意識というものは意識の一特殊型に過ぎない。そのまわりをぐるっととりまき、きわめて薄い膜でそれと隔てられている、それとは全く違った潜在的ないろいろな形態の意識がある。例えば「すべての他者を自己のうちに吸収してしまっている完全な存在」というヘーゲルの全哲学を支配している “あの”感じは、一般人には意識下に潜在したままの神秘的気分であるが、ヘーゲルにとっては識閾の上でいつも優位を占めていた。
 手術用麻酔の亜酸化窒素やエーテルは、“あの”感じ――形はさまざまだが、神の現前の感じを異常なまでに刺激する。
 p223
 神を知る知識は、直接的感情にしたがって構成されなければならないというのが、形而上学の決まり文句であるが、私たちの直接的感情は五感が提供するもの以外の内容を持っていない。(識閾上の五感は識閾下の五感とまったく趣が異なっている。)
 p244
 神秘主義の古典は誕生日も故国も持たない。人と神との合一を永久に語り続ける言葉は言語以前のものであり、だから古びることがない。
 p250
 神秘的状態があるということは、私たちの合理主義的意識が意識の一種類にすぎないことを証明している。私たちの感覚は事実のある状態をわたしたちに確信させているが、神秘家たちの神秘体験もかれらの直接知覚である。彼らの(識閾上の)五感は休止状態にあっても、その(識閾下の五感の)認識論的な性質は、私たちの覚醒状態とまったく同じく感覚的なのである。
 p255
 潜在意識あるいは超意識の広大な領域から生ずるものは、一般感覚世界から来るものとまったく同じように篩い分けられ、経験全体との対決という試練を経なければならない。(ここには天使も住んでいるが蛇も住んでいる。経験全体との対決を怠ると偏執病(パラノイア)という心理機構の故障にいたる可能性がある。)
 p262
 神学の遠大な思弁は、最初に感情の暗示した方角に知性が建て増した出っ張りの部類に属するともいえる。