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ニコラス・カー 「ネットバカ」 4

 p216
 広告それ自身の「商品価値」を、広告主の買値ではなく、顧客のクリック数と結びつけた「アドワーズ」システムというものがある。開発に携わったグーグル社は「頻繁にクリックさせる」こと=一定期間当たりのクリック数だけがその広告の効果であるというきわめて強引な論理を作り上げた。クリック数が多いほどその広告は画面の上位に表示されるシステムなので、一般人はあたかもその商品が優秀であるかのように錯覚する。広告主は広告の巧みさや品位ではなくたんなるクリック数に応じて支払いを行うのだから、購買者のクリック数が増えるにつれてグーグル社の収入は飛躍的に伸びた。その一方で一般顧客は、広告の説明文言と写真やイラストを信じて商品を購入するのだから、広告主は顧客の購買意欲を刺激するために法律スレスレの誇張表現や深層心理学的な詐術を悪びれずに用いるようになった。
 それを知る由もないわれわれは、クリックするたびに注意力ニューロンを磨耗させ、真偽の判断力を衰えさせている。
グーグルは文字通り、数億人の注意散漫化ビジネスにたずさわっているのだ。
 p237
 グーグルの創立者ラリー・ペイジ曰く「人間のプログラムつまりDNAはおよそ600メガバイトリナックスやウィンドウズよりも小さいわけです。だからアルゴリズムもおそらくそれほど複雑ではありません。知性というのはおそらく全体の計算にかかわるものなのです。」共同創立者セルゲイ・ブリン曰く「世界中の情報を自分の脳に貼り付けたら、人は間違いなく今よりよくなります。」
 彼らにとっていまの人間は型落ちしたコンピュータにすぎないのである。彼らのような、人間を機能の高い機械と考える無邪気な人種はいつもいたのだろうが、世界中で最大の天才と誉めそやされるのはいかにも今風の現象である。デカルトも馬鹿馬鹿しいほど人間=機械論者だったが、彼は一般人とは隔絶した異次元に住んでいた。
 p242
 人間を超える人工知能が可能であるというのは、脳が数学的形式のルールに従って作動しているとみなすことであり、理解できる事柄を使って理解できない現象を説明しようとする、欲望から生まれた謬見である。しかし、人間の脳にとって自明なクオリアの一つ、たとえば「清流の音の、その人にとっての美しさ」を、偶然を排除しスタティックなビットの形をとったコンピュータはまったく解析できない。フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』のあの視線と口元の描き方の秘密がどのように解明されようとも、「私たちがあの表情を喜ぶ不思議」をコンピュータには説明できない。濡れたような半開きの唇、右目だけをわざとずらした微妙な視線の角度、画面の右下で控えめに存在感を放つ真珠のイヤリング・・・などという退屈な分析しかできないのである。
 p243
 憂慮すべきは「クールな機械」に対する少年のようなグーグルのペイジやブリンの欲望ではなく、そのような欲望を生み出した、人間の精神に対する彼らの偏狭なイメージである。その、偏狭なイメージしかもてない小児のような彼らに対して賛辞を送る、オモテ世界のメディアの商業主義とニヒリズムである。
 p285
 われわれは、人生の多くをスクリーン上のシンボルを通じて経験するようになると、われわれそのものが、非合理な感情や共感を排したその機械に似てくる。精神病棟でセラピーロボットに内密な話を打ち明ける人がいるが、あまりぞっとしたものではない。