NHKの番組に「いのちドラマチック」というのがある。福岡伸一が出演するのでときどき見る。品種改良を例にとって生物進化を解きほぐす三十分番組だが、先日野生動物の家畜化について一時間の特別編成をしていた。
数頭から十頭前後の野性のキツネを餌付けし、しばらく集団で飼育すると、捕えられた当初は当然全部の個体が人間への恐怖心を全身で表わし、攻撃性をむき出しにして囲いの中を動き回る。それが、時間が経つとともにはじめの恐怖心が弱まり、人間に馴れようとする個体が、数は少ないがかならず現れる。そこでそうした個体同士をかけあわせると、野生ではきわめてまれだった、人間を甘噛みさえする個体が出現し始める。人間に馴れた個体同士の交配を重ねると、荒々しさを見せない個体の割合はどんどん増加し、十世代を超えると85%もの個体が野生をほとんど失った状態になる。そうした飼育キツネの群れは顔こそキツネだが性質は猟犬以上におとなしい飼い犬そのままである。
キツネが家畜化されたわけだが、イヌもネコもウマもウシも数千年から一万年前に同じ方法で家畜化されたのだろう。人に馴れやすい個体同士を交配させるというのは何も独創的な科学的知見であったわけではない。性格温和な親同士の子供は性格温和と考えるのに特別の知恵はいらない。馴れやすいということは飼うものにとって大きな利点だから、温和なオオカミの作り方は氏族から部族へ民族へとすぐに広がって行っただろう。
家畜化とは角を矯めることであるが、これは動物だけに通じる考え方ではあるまい。たとえばつい五千年前の旧約聖書時代。イヌはまだ十分に家畜ではなく、むしゃくしゃするとオオカミに先祖がえりしていた頃だが、古代バビロニアでもエジプトでも私たちの先祖は他部族の人間に対して野生の獰猛さをもって対処していた。バビロニアのネブカドネザル王は、捕囚ユダヤ人の皮をはぎ、バビロンの城壁に端から端までびっしり貼り付けて乾かしたという。刑罰としても、見せしめの方法としても凄まじいものがあった時代である。
古代バビロニアでもエジプトでもユダヤでも、異言語を話す民族は文字通り理解できなかった。数十キロメートルごとに変わっていくわずかな習俗の違いが羨望と怨嗟と恐怖を生んだ。それが、宗教が大きくなり、国の版図が広がるにつれて、他部族に馴れ、馴染みのなかった習慣を受け入れることが縁戚氏族の安寧を生むことに気づき始めた。そのうちに氏族間の雑婚が許容され、部族の間の垣根は低くなり、古来の独自性が次第に意味を失って、国民のような大きな共同体の概念ができていく。
そうした共同体の中では、かつて他部族の人間に行っていたような過酷な刑罰にたいして、違和感が持たれ始めるだろう。近代国家は部族の存在を許さず、支配下の人民を「国民」として平等視するのを建前とする。したがって近代国家の中では過酷な刑罰は、文明の下でいまだに角を矯めない「人倫にもとる制度」として疎んじられることになる。死刑の廃止をめぐる論議の原点はこのあたりにある。
アラブのイスラム諸国では、部族間の垣根にいまだに意味がある。これらの国は国民国家とは名ばかりで実は部族のゆるい集合体にすぎず、歴史的な利害関係で強く結びついた部族同士による国民共同体というものは存在しない。だからこれらの地域で死刑廃止の「国民議論」は起きるはずがなく、罰としての「死」は部族間、異民族間の争いでは当然視される。