上巻三分の一で放棄した。二十代に書いたそうだが、若書きのせいばかりとも思われないドイツ語複文構造のわずらわしさに耐えられなかった。その文体のせいか、わたしの経済学方面の基礎知識の貧困のせいか、ぺダンティシズムの悪臭にも耐えられなかった。ある現象を説明する際の、記述に厳密を期すための諸前提のくだくだしい説明には、本に鉛筆を突き刺すほど苛立った。岩井克人氏が「シュンペーターを勉強しようとする学生は、長たらしい第一章の静態経済の分析の退屈さで、大抵挫折してしまう」と書いていた。その通りだった。
上巻一六二ページでシュンペーターは、ダーウィンの進化論を「ただちに形而上学的偏見ではないにしても、もともと形而上学的根拠から生まれた見解であって、歴史の客観的意味を求めるあらゆる試みとおなじく、これを経験科学的研究に応用する場合には、その性質上偏見となる見解である」とこきおろしている。
しかしそのシュンペーター自身が、第三章の冒頭(二五二ページ)で「経済学は科学となった」と断言しているのだが、その彼も自分の国の一年後の財政状態の「思いがけない」変化や、ハイパーインフレの中でのシュンペーター家の家計予測を的確になしえたとはとうてい思えない。
経済学が――それが仮に静態経済学であっても――「科学」であるためには、恣意的な諸前提があまりに多すぎる。しかも時間軸がその諸前提のほとんどに関係するばかりか、個人や団体の友誼・反目といった数値化不能な変数を扱わねばならない。ヒトラーやスターリンのような極端な人間は国民経済を左右する行動をするし、カトリック教会やフリーメイソンのような団体の得体の知れない経済行動量は膨大である。意味を定義し得ない変数を扱う学問はただのイデオロギーである。
経済政策を実施する「合理的」な官僚の行動の上に、ヒトラーやスターリン、ローマ法王や枢機卿の「非合理的」な影が差さなかったはずはない。そうすればシュンペーターとしてありうべき政策のどこが経験「科学」にもとづくのだろう。科学には精密な実験によるか、飛躍のない完璧な論理による検証が欠かせない。経済学の実験は社会を相手にした生体実験であるから、高速道路の料金など失敗しても大したことのない、微細な分野でしかできない。完璧な論理構築などは、与件と前提さえ学者ごとに異なるのだから、大学一年生でも期待するだけ空しい。