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山本義隆 「磁力と重力の発見」2/7(みすず書房)

 中世社会の転換 / 磁石の指向性の発見
 p174
 八〜十一世紀、イベリア半島シチリア支配下においていたイスラームキリスト教に寛容だった。キリスト教の教会は信徒たちの指導者としての立場を保てたし、資産も保持できた。ムスリムへのキリスト教布教は禁じられていたが、キリスト教の教理や教会規約についてムスリムが介入することも禁じられていた。
 このイスラーム世界との接触の中で、ヨーロッパの知識人は、その地に継承されアラビア語に翻訳されていた古代ギリシャの哲学と科学の圧倒的な遺産(というより彼我の落差)に出会った。十二世紀のパリやオックスフォードなどの大学の出現自体がこの新知識の流入に密接に結びついている。大学とは、イスラムに接触して初めて知った膨大な量の新知識をヨーロッパが組織的に吸収し、拡充するための制度的な方策だった。西欧社会の知的な離陸はこの時代にあるといえる。
 ロジャー・ベーコン / 磁力の伝播
 p236
 十一、二世紀のヨーロッパ知識人がイベリア半島シチリアで見出した現実は、「イスラーム教徒の地ではいっさいが繁栄し、泉が湧き出し、大地は花々で被われている」という驚愕すべき事態であった。それまでイスラーム教徒というサタンの息子たちは残虐な戦争にしか能力を示さないと思われていた、そのいたるところで。戦争遂行能力の源泉が社会全体の技術水準にあるとは、当時ヨーロッパ人の考え及ぶところではなかったのである。
 p258
 一二二○年頃、ロジャー・ベーコンに大きな影響を与えたオックスフォードの初代学長ロバート・グロステストの特異な宇宙開闢説がある。「まずはじめに(ある種形而上学的な)光の最大限の広がりとして、蒼穹すなわち天球がつくられる。(ある種形而上学的な)光は瞬時に無限大に拡大するが、元の質料が無限小の点であるから、それが無限大倍されてつくられた蒼穹は有限の恒星天球になり、物体的宇宙の外延を形成する。」 これを、近代物理学の発散性の場に対するガウスの定理の予言であるといえば、いくらなんでも後知恵による読み込みが過ぎるだろうか。現代の素粒子物理学天文学は、八○○年前の「無限小の点である元の質料を無限大倍化てつくった有限の恒星天球」を数学的に高度化したに過ぎないとさえ思えるのだが。
 ペトロス・ペレグリヌスという男の貢献
 p270
 磁石と磁針の指北・指南性を形而上学的「原理」からの演繹によらず、実験物理学の対象として初めて研究し、淡々とその結果を報告したのは、ペトロス・ペレグリヌスという男である。ペレグリヌスは、みじめに敗北した第六次十字軍(一二五○年頃)に従軍したことがあり、繁栄するイスラーム社会の根源に迫るものに、何らかの形で深く接触していた。
 ロジャー・ベーコンにその「実証的」な研究姿勢を絶賛されたペレグリヌスは、その後、球形磁石という卓抜なアイデアを着想して、三○○年後のギルバートによる「地球は一個の磁石である」という発見に道を開いた。かれは十字軍からの帰途、直接にアラビア人から磁気作用と羅針儀の知識をフランスに持ち帰ったかもしれない(p294)。
 p294
 自然界の諸問題に対するアラビア人の接近方法は、自然のどの側面が神の目的を説明するかということでもなく、聖書や日常経験に見られる諸事実を説明する自然的原因が何であるかということでもない。「いかなる知識が自然支配の力を与えるか」――この単純なアプローチが、アラビア人がやってきたことのすべてである。
 井筒俊彦『読むと書く』によれば、イスラームが徹底した現世倫理に宗教であることが、このアラビア人の基本的考え方の根本にある。そしてこの倫理こそがムスリムを徹底的に政治に向かわせる理由である。現世を「よき方向」に向かわせる力はまず政治だからだ。

 ところで、内田樹が『街場の大学論』(二○○七年刊)のなかで、「過酷な後退戦の将帥」として、三十三歳ごろの山本義隆にオマージュを寄せている。
 「あらゆる政治運動は、どれほど綱領的に整合的でも、政治的に正しくても、かならずいつかは“落ち目”になる。歴史が教える永遠の真理である。そして、政治運動が歴史的事実として記憶されるには、この“落ち目”の局面を粛々と担う、後退戦の将兵たちが必要である。
 「東大全共闘は政治運動としてある種の完結性を持つことができたと、私・内田は思っているが、それは山本義隆という個人が弔いの仕事を引き受けたからだ。痩せて疲れ果てた山本義隆が一九七四年の冬、東大全共闘最後の立て看を片付けているとき、彼の傍らには一人の同士も残っていなかった。冬の夕方、十畳敷きほどもある巨大な立て看を銀杏並木の下ずるずると引きずっていく山本義隆の手助けをしようとする東大生は一人もいなかった。
 「法文一号館の階段に腰を下ろしていた私の目に、それは死に絶えた一族の遺骸を収めた巨大な棺を一人で引きずっている老人のように見えた。東大全共闘は一人の山本義隆を得たことで、“棺を蓋いて事定まった”と私は思っている。」