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オリヴァー・サックス 「妻を帽子とまちがえた男」(早川書房)1/3

 失認症
 p39-42
 失認症患者Pがいる。彼は妻の顔の特徴を言うとき、タテ・ヨコ・奥行き・凹凸の深さなど、帽子の特徴を述べるように言う。彼に近親者の写真を見せるとなにか抽象的な判じ物かテストをやらされているときのような態度を見せる。妻の顔写真を見せると「長径がおよそ二十五センチの卵形で髪はブルネット、唇がピンク色をした、私に食事を作ってくれる女性」と言う。
 その彼は驚くべき記憶力と知性の持ち主で、アンナ・カレーニナの一節を暗誦できるほどだが、そのなかに感覚的・情緒的な表現があったとしても、彼はまったくリアリティを感じることのない調子で暗唱するのだった。
 彼の思考形態はまったく機械のそれに等しかった。コンピュータと同じく、目に見える現実世界に無関心だったばかりではない。驚くべきことだが、外界のいくつかの主要な特質と大体の基本的関係だけを取り込んだら、あとは、それらをもとにひとつの世界を構築する、という点でもコンピュータと同じだった。
 彼の頭の中で作られる世界像が、彼が外の現実など全然理解していなくても、それなりにつじつまが合うものとなる、そういうことがあるのである。顧客との会議にローラースケートを履いて現れるグーグルの経営者が、人間を型落ちしたコンピュータと考えているのとなんと似ていることだろう。
 人類はチンパンジーを型落ちした人間と考えている。チンパンジーの頭の中で作られる世界像は、人類が考える外の現実など全然理解していない。しかしもちろん、それなりに、どころか完全に、つじつまは合っているのである。進化系統樹的に、人類はチンパンジーの類縁から別れたのだから、チンパンジーの外界理解の仕方は、人類よりもタフなはずである。

 p51 おかしな話だが、神経学や心理学はあらゆることに口を出すくせに、「判断」にかんしてはほとんどなにも語らない。だが判断の欠落こそが、多くの神経心理学的障害の核心なのである。
 経験論的・進化論的な意味においても、判断こそは、われわれの能力のうちで最も重要なものである。動物は、人間もそうだが、「抽象的態度」などなくてもやっていける。だがもし判断がなかったら、たちまち滅んでしまうだろう。だが、従来のコンピュータ的な神経科学では「判断」は扱えなかったのである。

 記憶を失うということ
 p58
 記憶を少しでも失ってみたら分かるはずだ。記憶こそがわれわれの人生を作り上げるものだということが。記憶というものがなかったら、人生はまったく存在しない。記憶があってはじめて人格の統一が保てるのだし、われわれの理性、感情、行為もはじめて存在しうるのだ。記憶がなければ、われわれは無に等しい。・・・われわれが最後にたどり着くところ、それは一切の記憶の喪失だ。これによってわれわれの全生涯は消し去られる。
 p81
 その患者ジミーは体格はよく、丈夫だし、一種の動物的な強さと精力を持っていた。それでいて妙に無気力・不活発なところがあり、そのうえ――だれもが気づいたことだが――「無頓着」だった。はたから見ると「なにか欠けているところがある」という感じがするのだが、本人は気づいているのかどうか分からない。たとえ気づいていたとしても、そんなことには「無頓着」なのだった。
 p85−86
 そんなジミーが礼拝堂にいるときは別人だった。見たこともなく想像もしなかったような、力強いひたむきな精神の集中をジミーはそこで見せた。彼はひざまずき、聖餅を舌の上にのせていた。聖体拝領の何たるかを少しも疑うことなく、ある一つの感情だけで彼は支えられ、それにもとづいた行為に全存在を傾け没頭していた。ものに意味を与えるところの有機的な統一が、すき間ひとつ罅ひとつない連続がそこに達成されていた。
 ジミーが見せたのと同じような没頭と精神集中は、おそらく音楽や美術によっても起こりうる。芸術にあっては、宗教においてと同じく、一瞬一瞬がそれ以外の瞬間と結びつき前後に関連を持ってつながるからである。この宗教や芸術における時間の継起のしかたは、日常の散文的時間のつながりとはまったく別物である。というよりは宗教や芸術においては時間はおそらく成立していない。
 一瞬の昂揚状態だけが塊となって当人を動かしている。昂揚の連続による肉体的な疲労だけが時間を意識させるのである。(小林秀雄が言うように)幼い子供を失った母親がこわれたおもちゃを前にして一日中すわっていられるのは、彼女のそのときの「魂」にはすき間ひとつ、罅ひとつないからである。