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R・リーキー 『ヒトはどうして人間になったか』(岩波現代選書)2/2

 第7章 最初の豊かな社会

 200万年くらい前の初期人類は、日常口にする食糧としては植物、卵、はちみつ、シロアリ、アリ、穴住性小動物など、今のチンパンジーとよく似たメニューを持っていた。チンパンジーと違うのは、初期人類は毎日の組織的食糧調達の最中には採集したものを口にせず、キャンプのような場所へ運んで行って母親と子供がそろって食べたことである。
 食習慣でのこの最初の変化が起きたことで初めて肉が重要となり、その時点で男がやっと社会構造の中に密接に組み込まれることになった。採集仮説の主たる強調点は、人間は食べるために食糧を「集める」唯一の霊長類であって、狩猟をする唯一の霊長類ではない点にある。ヒヒとチンパンジーが、たびたびの攻撃的狩猟でくり返し演じる場面は、人類が1500万年前から400万年前まで行っていた場面と酷似している。しかし、どんなヒヒもチンパンジーも食糧を採集して住処まで運搬するようなことは決してない。

 第8章 知能、道具、社会

 p196-8

 人間の知能が認知する外界特性の一つは、時間の経過である。外界に起こった出来事を真に知覚するには、出来事についての情報分析の中に時間の感覚が導入されていなくてはならない。
 われわれは、列車が駅を離れるのであって、その逆ではないことを知っている。また恒常的なのは外界であって、われわれではないことも知っている。少なくとも5歳か6歳を過ぎるとこのことが分かる。しかし類人猿はどうだろうか。

 最近までこの問いに対する答えはノーだった。だがスタンフォードの大学院生ペニーと彼女の「話をする」ゴリラ=ココとの会話を知ると、われわれの確信は揺らいでくる。ココが怒って彼女に噛みついた後三日してから、ペニーは(記号言語で)ココに訊いた。「お前は私に何をしたの?」ココは「噛む」と答えた。「お前はそれを認めるのね」とペニーは続けた。ちょっと後悔した様子でココは「噛む、引っ掻く、すみません」と言った。そこでペニーはなぜかみついたのかと訊ねた。「気が狂っていたから」という答えが返ってきた。「なぜ気が狂ったの」と訊き「知らない」の返事で会話は終わった。

 この会話はココがしばらく前に会った事件と感情に言及している点で注目すべきである。ふだんのココは自分のよくない行為の直後に、そのことを話すのを拒否する。しかし今の例では三日前に起こったことについて語ったのである。ココがどんな時間意識を持っているかを想像するのは難しいが、このような偶発事をとおして類人猿の時間感覚を垣間見ることができる。
 何年か前NHKテレビで見た番組を思い出した。中央アフリカチンパンジーに「明日あそこにあるバナナをもいでここにもってきなさい」と指示しても、チンパンジーには「あした」が伝わらなかったが、同地のボノボはよくそのことを理解し、ちゃんと翌日バナナを観察者のところにもってきた。

 p213-4

 誰でも知っているように、チンパンジーはきわめて利口である。大学生が首をひねるような迷路の問題でも正しい道順を探す出すし、豊富なコードを使ってコンピュータと対話することもできる。標準的心理試験では人間の得点範囲に達する。ゴリラもオランウータンも同じである。

 英米の人類学者たちは、これら類人猿の知能の高さはアリ塚からアリを誘い出す道具作りといった技術的目的よりは、社会的な目的のために進化したと考えている。その根拠は以下のようなものだ。
 チンパンジーたちの群れは動的である。群れの直面する実際問題も社会の雰囲気もつねに変化している。現実の自然界はある程度予想ができる。そこに住む彼らの個体ごとの気まぐれな行為に比べれば、確かに自然界の方が規則的である。広い地域に分散した多様な食糧源を開発するにはもちろん相当な認識力を必要とするが、大きな群れの中で社会的同盟関係を作り、それを維持し、行動を予測できない仲間と交流するのに要する知的圧力に比べれば、食料問題に要する認識力は大したことではない。
 複雑な社会組織を持つチンパンジーや人間の行動のように、変化してやまない不確実性を処理するのに要する智慧は大変なものである。

 しかしそのチンパンジーでさえ、アリ釣りの技術で大量捕獲したシロアリはその場ですべて食べ尽くしてしまうことしかできなかった。一方、200万年前、チンパンジーたちとともにアフリカにいた猿人たちは、狩猟・採集の収穫物を粗末な運搬袋でバンドに持ち帰り、そこで仲間たちと分け合う互恵的な食糧分配経済を確立しようとしていた。

 やや極端な例だが、互恵的利他主義とは次のようなものである。誰かが川で溺れているのを見つけたら、あなたが泳げるなら助けに飛び込むだろう。もちろん飛び込む瞬間にはそんなことを考えていないだろうが、いま溺れる人を助ければ、将来あなたの生命が脅かされたとき、かつて助けた人が恩を返してくれることを期待するだろう。互恵的利他主義は、恩はだいたい同程度に返される、つまり「なさけは人のためならず」という暗黙の前提の上に成り立つ。このような観点は利他主義から隣人愛という美徳を取り去るように見えるが、ある意味で利他主義は利己主義なのである。(p176)

 p215-6

 互恵的利他主義が個人に与える潜在的利益は大きいから、この感情はずいぶん昔に人間の心の中に芽生えたはずである。互恵的利他主義を維持するためには、たとえば必ずしも近い親族でない人に好意を払うことが必要である。あまり親しくなかった人に好意を払われたその人は、当然のこととしていつかお返しをしようとする。ところがお返しを拒む人がたまに現われる。現代の狩猟採集社会では、このような「不公正」をする人に対しては周囲の人びとの道徳的攻撃感情が爆発する。まず一切の利他主義がその人に対して停止される。そしてその人は孤立して罪悪感にさいなまれる。

 同情と感謝の気持ちもまた互恵的利他主義の基礎にある。困っている仲間を見ると気の毒だと思う、そして苦しみがひどいほど憐れみの念は深くなり、ますます助けてあげなければと思うようになる。苦境から救われた人は、助けてくれた人に感謝の念をいだく。これが将来恩返しをしようという心理的動機になる。

 一度、互恵的利他主義の組織が社会的動物の中に定着すると、この組織はたちまち高度に複雑化するだろう。言語を用いてコミュニケートする人間の場合はとくにそうだったと思われる。自然淘汰という無意識のなかだから、当人にはまったく悪意なく、利他主義で「いんちき」をしようとする個体が何人か出てくる。この人たちは与えるものよりも余計にもらおうとして、偽の道徳的攻撃、偽の罪悪感、偽の憐み、偽の感謝を表明しただろう。そしてこのような状況は少なくとも短期的にはそのひとに生物学的に有利にはたらいたはずだ。

 しかし自然淘汰の圧力は、そのいんちきが長期的には破綻するように働いただろう。いんちきは安定した自然秩序の前には必ず綻び、いんちきを(もちろん当人はまったく無意識に)看破する個体を必然的に生み出す。こうして「だまし」と「見透かし」のゲームが始まり、嫌疑と信頼という新たな感情が生まれる。