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養老孟司 『人間科学講義』 ちくま学芸文庫1/3

 ●人間科学とはなにか
 p13
 われわれは「世界はこういうものだ」と信じているが、それは脳がそう信じているだけである。しかしそうだとわかったからと言って、事情がさして変化するわけではない。
 が、脳がそう信じているだけだということを知ることはそれでも大切なことである。なぜならたかだか1500グラムの脳が「勝手に思っている」ことを根拠に、例えば人を殺していいかという疑問が生じるからである。だからわたしはどんな原理主義者にもなれない。
 p24
 明治政府が教育勅語に意識的に入れなかったものが二つある。宗教と哲学である。当時、宗教と哲学に触れればどうしてもキリスト教に触れなければならなかった。明治政府は江戸幕府と同様にキリスト教を警戒していたから、「そんなものは教えるべきではない」とし、代わるものとして「勅語」を臣民に与えた。
 戦後、教育勅語は徹底的に消された。いまでも日本の公教育は宗教と哲学を教えない。そんなものは教えるべきではないというのが先生たちの暗黙の了解であるが、この「暗黙の了解」こそ、(臣民は哲学など小難しいことを考えてはいけないという)教育勅語の精神であることに気づいている人は少ない。
 ●「遺伝子」ではなく、「起因子」のほうが正しい
 p32
 ヒトが利用している情報は、脳という装置を通してはたらく情報と、細胞を通してはたらく遺伝子の二種類しかない。ヒトと動物の明確な違いをいうなら、ヒトの特徴とは、遺伝子に対して、脳が扱う情報が相対的に肥大することだといえる。それが他の動物に比べて、ヒトの脳が大きいということの実質的な意味である。
 p35
 代謝活動に不可欠な酵素タンパクの構造は遺伝子に記されているから、生きている細胞は必要に応じてそれを読み出さなくてはならない。遺伝子のこの面でのはたらきは、世代間での情報伝達を意味する「遺伝」とは直接の関係はない。
 その意味では日本語の遺伝子という表現は意味が狭すぎてあまりうまくない。遺伝子をあらわす英語のgeneにも「遺伝」の意味はない。「起源」をあらわすジェネgene-と同根である。日本語では「生成子」「起因子」のほうが適切と思う。
 p46
 ニューラル・ネットの中で起きていることは、入出力される情報とある意味では「関係のない」できごとである。ニューラル・ネットの中の電気的事象と、われわれの意識が外界から「読み取るもの」は、それ自体は関係がないからである。それは、ニューラル・ネットの中のそれぞれのシナプスの重みづけが、ニュートン的因果関係という意味での因果関係ではないことと関連している。
 文学系の人たちが脳が「難しい」というのは、そういう人たちが古典的な因果関係理解に慣らされきっているからだろう。量子がつかさどる電気的事象は一般的にニュートン的因果関係には従わない。
 p54
 リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』のなかで、個体は滅びるが遺伝子は存続してきたことを根拠にして、個体は遺伝子の乗り物だという比喩を語ったが、これは誤解されやすい言い方である。存続してきたのは遺伝「情報」であって、遺伝子タンパクではないからだ。すべての情報は、固定しているがゆえに、条件によっては「存続せざるをえない」のである。
 p57
 (原理的には)論文という記号化・固定化された情報では、変化を本態とする生きているシステムを記述することはできない。生きているシステムを作ることと、それに関する論文とでは作業の階層がまるで違う。論文をいくら集めても生きているものにはならない。当たり前のことである。
 生きているシステムを本気で作ろうとするのは、今ではコンピュータ専門とする人たちである。その人たちは論文の代わりに自分の作ったロボットを出すほかはない。彼らに、論文が書けないでしょうというと、そうだと答える。これはほとんど芸術、美術の世界であるからだ。芸術、美術の世界では作品の代わりに、「この作品はあれとこれを素材に、ああしてこうして作って、世界無二の傑作になった」との論文を出して済ます人はいない。