p159−62
「殺人はなぜいけないのか」と問う人間
だいぶ前ですが、テレビ番組で、ある中学生がそこにいた知識人に向かって、「どうして人を殺してはいけないのですか」と質問したところ、誰もそれに対して納得のいく答えができなかったということがありました。
中学生の問いは、もちろん問いの立て方が間違っているわけで、知識人たちは 「君はいつどんな場合でもその問いを口にできるのか?君自身がナイフを持った大人に襲われて、のどを掻き切られようとしているときも、その問いを口にできるのか?」と、中学生をたしなめればよかったのです。でもその場の大人たちは虚を突かれてしまって、そういうことをできなかった。
「どうして人を殺してはいけないのですか」という問いは、想像力というものが決定的に不足している問いです。生意気盛りの中学生という「子供」なら、笑って済ませてもいいのですが、大人が答えられないとなると、その想像力の貧困は問題です。なぜなら、その大人は、中学生と同じように、自分が「殺す側」にいる局面だけを想像して、自分が「殺される側」になる可能性については想像していないからです。そのような想像力不足のいい大人が「殺人自体の非倫理性」という抽象的問題を考えようとしている・・・・、誰もそれに対して納得のいく答えが出ないのは当たり前です。
「一般的に妥当する倫理」というのが虚言であるのは論を待ちません。テロリストの根絶を呼号するアメリカ大統領は、おそらくテロの犠牲になったアメリカ市民たちの痛みに深く共感しているでしょうし、聖戦を指示するアラブの聖職者はアメリカの空爆の犠牲になった同胞に痛みに深く共感しているでしょう。
P171
独立宣言に「幸福とはお金のことである」と書いた国・アメリカ
ロック、ホッブズ、ルソーやモンテスキューなど近代市民主義の思想家たちは「私権の制限による公益の増大こそが私益の最大化をもたらす」という論理を使いました。ところがジェファーソンの起草したアメリカ『独立宣言』には 「生命、自由、幸福の追求の権利を保障するためにこそ、政府が組織されるのであり、政府は治められるものの同意によって成り立つ」 と書かれています。「公益の増大が私益の最大化を妨げる場合があるが、その場合は私益を優先させてよい」ということのほうに力点が置かれているのです。
『独立宣言』を読むともう一つ気になることがあります。それは、ジョン・ロックは人間の自然権を「生命、自由、資産を守る権利」としているのですが、ジェファーソンは『独立宣言』起草に際して、人間の自然権を「生命、自由、幸福を守る権利」と書き換えたのです。つまりロックが「資産」としたところを、ジェファーソンは「幸福」と書き換えたわけです。これは、独立時のアメリカ合衆国が「お金にそれほど価値を認めなかった社会」であったということではありません。あの、お金に細かいベンジャミン・フランクリンも起草者のメンバーだったのですから。
話は逆です。ロックにとっての「資産」はジェファーソンにとっての「幸福」だったのです。「幸福」と「資産」はアメリカ合衆国『独立宣言』の起草メンバーにとって同義語だったわけです。
デイビッド・ブルックスというニューヨークタイムズのコラムニストは 「人生の科学」(早川書房2012年、原題:The Social Animal)でこう書いた。 「・・・・・・男性は、仮に身長が少し低いとしても、収入が多ければ身長の高い男性よりも女性の人気を勝ち得ることができる。インターネットのいわゆる出会い系サイトで集められたデータによれば、身長が168センチの男性でも、もし年収が175,000ドル多ければ182センチの男性と互角になれることが分かっている。黒人男性が白人女性と付き合いたいときには、だいたい年収が154,000ドル多ければ希望がかなえられることも分かっている。」
また近代アメリカ「功利主義哲学者」ウィリアム・ジェイムズは『プラグマティズム』の中でこう言い切った。「われわれアメリカ人は神から出てきた結果を信頼できると確信してよいし、責任の苦悩を払い落として精神の休暇を取る権利が与えられていると考えてよい。この、神が人間の信頼に値する存在であることが、(実際的であるかどうかを第一義とする)プラグマティズムが考える神の現金価値(つまり資産価値)である。」
今日のアメリカングローバリズムのことを考えると、さまざまな問題点はこの二つのこと、つまり「公益の増大が私益の最大化を妨げる場合は私益を優先させてよい」ということと、「幸福」と「資産」が同義語であるということに帰着するのではないでしょうか。
「私利を最大化しようとするするための私権は、これを制限しなくてはならない」という発想が、アメリカという国にはおそらくなじみが薄いのでしょう。たとえば、中東を安定させるには私益を多少犠牲にして国際世論の合意形成に時間をかけるほうがより効果的であることは目に見えています。だがアメリカ政府はあえてそういう政策をとらない。それは中東の政治的安定よりもアメリカン・イデオロギーの貫徹のほうが優先順位の高い目標であるということを意味しています。
国内の銃規制についても、規制したほうが海外からのアメリカイメージがよくなることは明らかです。でも草の根市民やライフル協会が猛反対する。自分たちの安全性が脅かされるなどと妄言じみたことを言う。その根っこには、「自分の安全は自分で守る」というアメリカという国の成立時にはリアルだった理念が今でも生きているわけです。つまり彼らにとっては、「国のイメージアップという公益の増大が、家族の安全という(幻想としての)私益の最大化を妨げる場合があるが、その場合は私益を優先させてよい」のです。