イスラムの聖典『コーラン』を通じて、古典を読むことにともなう「解釈」の問題性と可能性を突き詰めようとした本である。いうまでもなく、井筒俊彦は岩波文庫3巻に『コーラン』を訳出したイスラム学、宗教学の世界的泰斗である。
「日本人にとって『コーラン』は決して読みやすい書物ではない。といっても別に字句が難しいわけではない。(クリスチャンでない日本人にとってはキリスト教の旧約聖書もまったく同じような感じを受けるのだが、)なんとなく妙な違和感があって親しめないのだ。表現されている思想、イマージュ、そしてまたそれらを下から支えている存在感覚や世界像が日本人にとってあまりに異質だからである。ムハンマドを人類史上に現われた巨大な英雄として称揚したカーライルですら『コーラン』には辟易し、こんな退屈な本はないと匙を投げたという。」
しかし、と井筒俊彦は399ページで言う。カーライルが退屈したのは、カーライルに『コーラン』を生きた形で読み、生きた形で理解するための技術が欠けていただけのこと。『新約聖書』でも読むようなつもりで、それと全く同じ態度で『コーラン』を読むから、退屈でつまらなかっただけである。
書かれてある言葉を、当時の話し言葉として読み直す
p55−7
すべての古典は書かれてしまっている言葉(エクリチュール)としてわたしたちに与えられます。この大前提は誰にも崩せません。だから『コーラン』に限らず、古典を理解するためには、元へ戻して、そこの再現されるパロールの状況性の中に身を置いて、そこから一々の文の意味を理解していく。そういう解釈操作がどうしてもまず第一に必要になります。『コーラン』もそうです。その『コーラン』のテクストを読んで、その一つ一つの文章を、いちばん原初的な言語次元、つまりその言葉が対話者のしゃべり言葉であったパロールという次元にまで引き戻してみる。
ところが、ややこしいことですが、書かれたコトバを、もともとの話されたコトバの次元に戻すだけでは足りない面があります。アラビア語と日本語では、コードとして組織化された記号の体系が全く違うという問題がそれです。・・・・・コードとして組織化された記号の体系などと言いますと、なんだか非常にすっきり整理された組織体みたいな感じですが、じつはこれはごく表面の事態であって、ちょっとその深みに入ってみると、たちまち混沌とした捉えどころのないものに突き当たってしまう。下意識的領域に広がる「意味連鎖」の次元がそこにあるからです。しかも、アラビア語でも日本語でもそれぞれに。
「理解」とは言葉の「半意味的領域」を想像すること
意味の連鎖関係というものは実に不思議なものです。それはたとえば日本の連歌、俳諧の付合の技法などに、極端に推し進められた形で表れています。ひとりが句を出す(前句)と、その次の番にあたる人がそれにつながる句を付けていく(付句)。前句と付句は意味がつながっているのですけれど、そのつながりの屈曲が実に微妙で面白い。連歌のできていく過程を見ていると、完全にできあがった意味ばかりじゃなくて、半分出来かけの意味みたいなものが、座の人たちの間(インター)主観的な意識の底にあって、その半分出来かけの意味みたいなものが、不思議な連鎖の流動体なして座の中で働いているのがよく分かる。このような事態は決して日本の連歌、俳諧だけに特有のことなのではありません。いつでもどこでも、現在でも古代でも、人間の言語がある限り、その意味連鎖の構造はそうしたものであると私は考えています。
このような意味連鎖の作り出す下意識領域を私は仮に言語アラヤ識とか呼んでいるのですが、そのような半意味空間というものがわたしたちの意識の深部にある。それが普通、日本語とかアラビア語とかという名で知られている言語記号の体系の意味論的底辺です。
ひとつひとつの発話はすべてそれの発現です。たとえば「神は慈悲深い」という文を誰かが言う。すると同時に、「神」・「慈悲」を十重二十重に取り巻く、時空の離れたアラブと日本ではまったく異なる意味連鎖が発動して、この命題の論理的意味を微妙に色づける。だから日本人の言う「神は慈悲深い」とアラビア人の「アッラー ラッハマーン」とでは、まるで違った意味になってしまうのです。
最初のカーライルに戻りますが、現代英語でだけコーランを読み、それぞれの言語の下部にある半意味領域の呼吸に無神経だと、「こんな退屈な本はないと匙を投げ」ることになってしまうわけです。