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砂田利一・長岡亮介・野家啓一 『数学者の哲学・哲学者の数学』(東京図書)2/2

 哲学の「効用」
 p96
 野家 いつも新入生のオリエンテーションなんかで哲学の話をすると、必ず「哲学は何の役に立つんですか」という質問が来る。
 砂田 それは、数学も同じことをよく言われます。
 野家 私がいつも答えるのは、「役に立つ」とか「有用」とはどういうことかを考えるのが哲学なんだと。ものごとの有用性がプラスの価値として認められるようになったのは、そんなに古いことではなくて、たかだか18世紀のダランベール、ディドロの頃からなんですね。「これまでは代数学の定理を発見した人だけがえらいと思われてきたが、たとえば時計の雁木を発明した名もない職人も本当は偉いんだ。もっと評価されるべきだ」と彼らは言いました。社会のなかで産業の占める役割が大きくなって、はじめて有用性、効率性などがプラスの価値になっていったのでしょう。それに相伴って、役に立たない理論的知識の代表である哲学の価値が下落していきました。

 素朴な経験論、唯物論にやっつけられないために
 p123−5
 長岡 数学の哲学がなぜ大切かというと、私はやはり素朴唯物論と素朴経験論を打ち破るのに、数学ほどよいものはないって思うからなんです。われわれはいつもその素朴唯物論と素朴経験論の、いわば攻撃にさらされているわけですね。ちょっと油断すると、そこに攻めこまれる。それは非常に強い攻撃で、「誰でも、なにごとも、経験しなければ分からない」と言われれば・・・。
 砂田 言われればそうだなって、日常の中では思ってしまいます。
 長岡 心ってどこにあるの?って言われたら、日常的思考の中では、物質に還元したくなりますよね。現代生理学の啓蒙書などを読んでいれば、日常的思考ででも「心のありか」に一応は接近できるわけです。でも、素朴唯物論者や素朴経験論者がどんなに頑張っても、絶対に接近できないのは、やっぱり数学的認識の世界だと思うんですね。
 砂田 空間の科学である幾何学についていえば、18世紀を過ぎてもユークリッド幾何学は完全な幾何学でした。第五公準である平行線の公理を疑う人は出てこなかったわけです。ところが19世紀になると、リーマンやミンコフ、ノバチェフスキーなどが次々と現れて、ユークリッド空間は非ユークリッド空間の特殊なものに過ぎないことが厳密に証明されてしまいました。
 私たちの周りに広がる空間が、ユークリッド幾何学が成り立たない空間である可能性があることは、現在ではよく知られています。平行線の公理は、ガウスが言うように、(すべての空間は曲がっていますから、実際には存在しない)曲率がゼロの空間でしか成り立たないんですね(p238)。すなわち、私たちの空間についての素朴な「経験」は、空間の実態に近づけないことを意味していると思うのです。

 論理結合子と日本語
 p192−3
 長岡 日本語は、やっぱりロジックに弱い言葉だと思いますね。接続詞が少ないので。いま『源氏物語』をいちばん明解とされる与謝野晶子訳で読んでるんですけど、耳で聞くだけではよく分からないんです。
 野家 谷崎潤一郎の訳に比べれば、はるかに明解ですが・・・。
 長岡 日本語は、ロジックに向かない言語というか、歴史的にも接続詞があまり発達していない文化ではないでしょうか。文と文との関係をつなぐ接続詞というより、判断をつなぐ論理結合子、ロジカル・コネクティブに相当するものが、日本語にはないのではないかと思います。
 野家 not, and, or にあたる言葉ですね。でも、言語学者の鈴木孝夫さんや英文学の外山滋比古さんは、日本語は十分論理的だと考えています。日本語はむしろ、そのような論理的骨格を会話などで表面に出すことを嫌い、品がないと考えるんじゃないでしょうか。

 神秘思想――哲学と数学の共通の敵
 p246−8
 長岡 私は、「無限」という概念を扱う哲学と数学には共通の敵があると思ってるんです。言葉でいえば、神秘主義に傾くということです。20世紀の途中から、「ニューサイエンス」なども含めて、現代科学を超えるものを夢見る勢力がありますよね。そういう勢力に対する期待感が、とくに若い人たちのあいだに広がっている・・・。哲学と数学両方が好きだという人の中に、数学の概念をアナロジーで理解して、それだけで何か非常に深遠な思想にたどりついていると誤解している人が多いように思います。
 砂田 カタストロフィの理論やフラクタル理論、ゲーデル不完全性定理にもそういう傾向が見られましたね。ゲーデル不完全性定理は、現代科学の限界を示している定理だということで、ニューサイエンスにもよく使われています。数学者から見ればそんなことは言っていないのですが、やっぱり哲学的な立場から数学を理解しようとする素人の人たちは、そういうところに神秘的なものを感じるのでしょうか?
 長岡 ある種、慰めなんだと思います。今の人々は、激励よりは慰めが欲しいようですから。科学に関しても、公害とか地球温暖化とか、何かいやなイメージしかなくて、それを超越する新しい視野が欲しい。勢いから神秘思想みたいなものに一気に行ってしまう。

 地震確率50%とは「全く分かりません」という意味
 p289-93
 長岡 前の首相(管直人)が、東日本大震災を受けて、「30年以内にマグニチュード8クラスの地震が起こる確率が84パーセントだ」と言っているのを聞いて、本当に驚きました。どんな予測モデルに基づいても、地震のような難しい現象の確率が有効数字二桁の精度で語れることなんてはないでしょう。
 砂田 おそらく前首相は誰か地震学者に聞いたんでしょうけど。数学に携わる私にも、その数字の根拠はよくわかりません。
 長岡 多くの国民は、「数学は厳密に精密に語ることができる」と教育されてきたので、「84パーセント」を「数学的な真実」と信じてしまうんじゃないでしょうか?
 砂田 だから「確率80パーセントであした雨が降ります」というと、ほとんど降ると思ってしまう。80という数字をものすごく「確実」の意味にとってしまうわけです、一般の人は。「数学的な真実」でないものをそうであるかのように見せてしまうことはプロパガンダにすぎません。広告宣伝の世界です。
 長岡 確率50パーセントっていうのは、まったく分かりません、ということですものね!