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バートランド・ラッセル 『西洋哲学史 3』(みすず書房)2/2

 第27章 カール・マルクス
 マルクスは、「産業社会時代の哲学」という自分の立ち位置を自覚していただろうか
 マルクスはみずからを唯物論者だと称したが、18世紀的タイプの唯物論者ではなかった。彼の見解によれば、ひとの感覚や知覚の作用は主体と客体の相互作用であり、むき出しの客体というものは、知覚者の活動を離れては単なる素材にすぎない。だから受動的な瞑想という昔の意味における認識は非現実的な抽象概念であって、ひとに実際に起きている過程は、相互作用の中で諸事物を「処理している」過程だという。

 「客観的真理というものがあるとしても、それは主体と客体の相互作用の中で、実践において論証されねばならない。思惟の現実性あるいは非現実性に関する、実践から遊離した論争はまったくスコラ的な論題である。哲学者たちはさまざまに世界を解釈してきただけだが、世界を変革することが真の課題である。」
 マルクスが言いたいのは、認識する者も認識されるものも、間断のない相互作用の関係にあるのだということである。マルクスはこの過程が決して十全には完結しないものであるゆえに、「弁証法的」であると言ったのだ。現代構造主義の淵源をマルクスに求める人がいるのは、この「間断のない相互関係」を、世界で生起するほとんどの事象の構造のなかに読み取ったからにほかならない。

 皮肉な言い方をするが、すべての哲学者は自分自身が「真理」と呼びうるような何かを追究することに従事している、と思っている。そう考えなければ、だれも哲学に憂き身をやつしたりしないだろう。その点で、マルクスも他の哲学者と同じように、自らの教説の真理性を信じたのであり、自説を19世紀中葉の反逆的中産階級に属するドイツユダヤ人ならではの表現であるとは考えもしなかったに違いない。
 おおざっぱに言えば、私はギリシア哲学は都市国家に適した心性を表現していて、デカルトやロック以降の哲学は中産商人階級の諸偏見を具現する傾きを持ち、マルクス主義ファシズムは、近代の産業国家に適した哲学であろうと思っている。
 そして私は、マルクスは彼が自分の立ち位置を確認すべき重要な点で誤りを冒したと思っている。彼の、産業国家に適した哲学において考えなければいけない社会的諸状況というものは、経済的であるのと同程度に政治的でもあるのであって、それは力というものに関連してはいるがそのうち(マルクスが唯一とりあげる)富というものはただの一形態にすぎない。政治的側面について富と変わらない力を持つものとしては、端的に、人々の官僚志向、有名志向、怠惰の性向、・・・・、ほかにいくつも挙げられよう。

 関心が地上的ことがらのみに局限されている事実とならんで、マルクスには進歩を普遍的な法則であると簡単に信じている態度が見られる。そのような態度は19世紀を特徴づけたものであり、その同時代人たちと同じく、進歩の不可避性という信念のゆえにこそ、マルクスは革命に伴う倫理的考慮を省略しうると考えることができたのだ。社会主義が到来しつつあるとすれば、それは地主や資本家にとっては改善ではなかろうが、より大きく人類的には改善でなければならなかった。地主や資本家の凋落や悲惨な運命は、彼らがその時代の弁証法的運動に調和していないからにすぎないとも言っただろう。マルクスはみずからを無神論者であると公言したが、有神論のみが正当化しうるような宇宙的楽天観の保持者でもあったのである。