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バートランド・ラッセル 『西洋哲学史 3』(みすず書房)1/2

 副題にあるとおり、「古代より現代にいたる政治的・社会的諸条件との関連における哲学史」を概説したものである。とりあげたすべての西洋哲学者において、その学説が微に入り細にわたって検討されているのではなく、どのような時代背景の中にその学説が生まれたのかという視点から全ページが書かれていて、たいへん読みやすい。わたしのようなトウが立ったものはいけないが、これから西洋のことをちゃんと勉強しようと思う若い人には、とてもいいのではないか。(もちろんラッセルがイギリス人であるという限定があるのは言うまでもない。凡庸を愛するイギリス人だからこそドイツ人の晦渋、フランス人の独断に陥らなくて済んだともいえる。)哲学なんてチンプンカンプン、これほど空疎な学問はないという感想を持たずにすむことは確かだ。
 第5章 宗教改革と反宗教改革
 教会の社会的威信というものを失墜させたのは宗教改革である
 ルターとカルヴィンとイエズス会を創始したイグナチウス・ロヨラ宗教改革と反宗教改革につらなる三人の傑物だが、この三人はそのすぐ前のエラスムスやトマス・モアなどよりもっと中世的な哲学観の持ち主だった。ルターとカルヴィンは聖アウグスチヌスに復帰したのだが、篤信だが原理主義的でもあった彼らはアウグスチヌスの教えのうちで神と人間の魂との直接の関係をあつかった部分にしか興味がなかった。その結果、西洋の社会維持制度として重要な役割を果たしていた教会に関する部分はないがしろにされてしまった。
 彼らの神学は、教会の権力を減少させた。「免罪」の教義をしりぞけた結果、法王の収入の多くの部分が失われたし、(後世の資本主義的勤労倫理観の下地になった、個人的篤信がなければ人知の及ばない神の「救済予定」の枠内に入れてもらえないという)彼らの「予定説」の教義によって、死後の魂の運命はカトリック司祭たちの行為とはまったく無関係なものとなってしまった。
 だから、これらの宗教改革の諸刷新は、もろ刃の剣の意味を持っていた。法王に対する闘争には資したが、プロテスタント教会というものをプロテスタント諸国で権力あるものとさせるには大いに妨げとなったのである。この結果、プロテスタント諸国では世俗の諸国王の権力が増大した。イングランドではヘンリー八世やエリザベス女王が旺盛に自らの権力を主張したし、ドイツ、スカンジナビア、オランダでもプロテスタントの元首たちは同様の態度をとった。

 第6章 科学の興隆
 コペルニクスケプラーガリレオの時代、「神が作った」惑星の軌道は「美しい形」でなければならなかった
 16世紀、コペルニクスが自説を伝えた人々のうちにはルターがいた。十分に中世的な哲学観の持ち主だったルターは地動説に非常なショックを受けてしまった。「成り上がりの占星術師に人々は耳を傾けている」とルターは言った。「天空や太陽や月ではなしに、地球が回転するといったことを示そうと躍起になっている成り上がり者の言うことに。この馬鹿者は、天文学という科学の全体を逆転させようとしている。しかし尊い聖書は、ジョシュアが太陽に向かって止まれと命じたのであって、地球に向かってそういったのではなかったことを物語っている。」
 同じようにカルヴィンも、次のような聖書・詩編の句でもってコペルニクスをやっつけた。「また世界もかたくたちて動かさるることなし」。そして「コペルニクスの権威をあえて聖霊の権威の上位に置くものがあろうか」と絶叫したのだった。

 17世紀の初頭に発表された惑星の運動に関するケプラーの法則のうち、第一の法則は惑星が楕円を描いて運動するというものである。惑星の軌道が(中心が一つしかない)円ではなく(中心が二つある)楕円であるということは、近代人が想像する以上に当時の人々の論難を呼んだ。人々が伝統的な思考の枠組みから訣別することはそれほどに難しいことだった。
 円の代わりに楕円を持ち込むことは、ピタゴラス以来、天文学を支配し続けてきた審美的偏見を放棄することを意味していた。円は完全な形体であり、天体は完全な物体である、いやもともと神々である、ということになっていたのであり、プラトンアリストテレスにおいてさえそれは神々に親近な関係があるものとされていた。完全な物体は完全な形を描いて運動するはずだ、ということはわかりきったことに思われていたのだ。さらに天体は、押されも引かれもせずに自由に運動するのであるから、その運動は「自然」でなければならない。円には何か「自然」なものがあるが、楕円はそうではないと想定するのはたやすかった。このようにもケプラーの第一法則が受け入れられるためには、多くの中世的な根深い諸偏見が放棄されなければならなかった。

 ケプラーの法則発表後、10年ほどして、誰もが知っているように、ガリレオは異端審問所によって断罪を受けた。その裁判はまず1616年に私的な形で行われ、1633年には公的に断罪されて、ガリレオは自説を取り消し、地球の自転や公転を再び主張しないと約束した。その結果、異端審問所はイタリアにおいて科学を終焉させることに成功し、その地において科学は近代まで復活することがなかった。
 しかしヨーロッパ全体においては、異端審問所はコペルニクスケプラーガリレオと続く太陽中心理論を科学者に採用させないことに失敗し、その愚昧さによって教会側に少なからぬ損害を与えた。幸運にもイングランド、ドイツ、スカンジナビア、オランダなどのプロテスタント諸国が存在したのであり、そこでは僧侶階級がどれほど科学に危害を加えようとしても、国家の支配権・裁判権は世俗の王たちのものだったのである。
 ちなみにだが、ガリレオ(1564−1642)はニュートンを除けば、近代科学のもっとも偉大な創始者である。そのガリレオが生まれたのはほぼミケランジェロが死んだ日に当たっていて、彼が死んだのはニュートンが生まれた年だった。偶然と読んでもいいし、必然を感じてもいい。