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養老孟司・茂木健一郎 『スルメをみてイカがわかるか!』(角川新書21)

 例えば絆(きずな)という言葉がある。広辞苑の少し古い(第4)版には、第一義として<動物を繋ぎとめる綱>とあり、第二義として<離れがたい情実、ほだし、係累>とある。しかし21世紀に入って以降は第一義の意味で使うことはほとんどなくなり、とくに2011年の東北大災害以来、メディア上では<離れがたい情実>が第一義となって、<押しつけの連帯感>のニュアンスがつけ加わってきた。その結果、他人とのむやみな連帯よりは自己や自家族の独立・自由を好む私にとって、「絆」は同調圧力を感じさせるいやな言葉に変化してしまった。
 この本では、こういうことが起きるのは、脳の神経細胞が、個体が生きている限りは不眠不休で働いていることの必然的結果であると説明されている。

 p167-70

 脳の神経細胞は、一見脳が休んでいるように見えるときでも、ごろ寝をしてぼんやりしているときや、ぐっすり眠りこんでいるときでさえ、活動し続けている。この神経細胞の活動を脳の自発的な活動と呼ぶ。このときの活動レベルは、積極的な活動時に比べれば、むろん低い。それでも、脳の神経細胞は本人が生きている限り完全に停止することはない。

 神経細胞が自発的に活動することの意味は、現在の脳科学でも十分には解明されていない。どうやら、脳というシステムは何もしていないように見えるときでも神経細胞がある程度の自発的な活動をしなければ十分な機能を発揮できないらしい。脳は、眠っているあいだも続けられる無意識の自発的な活動の中で、つねに内部の神経細胞の結合パターンを変更していくシステムなのだ。
 この神経細胞間のシナプスの結びつきが刻々と変更されていく中で、次第に、人間の記憶も編集・整理されていくと考えられる。

 記憶には大きく分けてエピソード記憶意味記憶がある。エピソード記憶とは、「あの時あの場所であんなことがあった」という、具体的なエピソードの記憶である。いつ・どこで・何が、という三つの要素が結びつきあった形で、過去にあったイベントが脳の中に記憶として定着することである。
 いっぽう意味記憶とは、いつ、どこで、という限定を離れて、普遍的、一般的な形で「意味」が記憶されることである。たとえば「あたたかい」という言葉を、それがいつどこで使われたというエピソードとしてではなく、その意味するところとともに記憶するのが意味記憶である。

 人間の脳の中では、さまざまなエピソード記憶が時間をかけて意味記憶に編集されていくプロセスが進行しているらしいことが分かっている。このプロセスはfMRI(機能的磁気共鳴画像法)をもちいた最新の研究によれば、10年、20年の単位で進行するらしい。

 人間は、その体験するさまざまな出来事に中に「意味」を読み取る。これらの「意味」は最初から一般的なものとして与えられているわけではなく、人生の中で出会うさまざまな具体的な出来事(その人にとってのエピソード)の中から、次第しだいに抽出されていくものである。人間の脳は、具体的なエピソードから、次第に意味を編集していく、驚くべき能力を持っているらしいのである。

 その編集のプロセスを意識したり、コントロールしたりできる人はどこにもいない。エピソード記憶から意味記憶への編集過程は、人間の意識によってコントロールされることなく、脳の中で密やかに進行している。この無意識の編集過程こそ、人間の脳の行う最も重要な機能である。この無意識の過程があってこそ、100人が一つに事象にたいして100通りの反応を起こすのだといえる。

 冒頭にあげた「絆」という言葉で言えば、私の脳の中で<(母と子を結ぶ関係性のような)動物を繋ぎとめる綱>という昔ながらの単純な意味記憶に、メディアの24時間365日災害報道大合唱というエピソード記憶が加わって、記憶が再編集されたということである。